English
YIDFF 2023 アジア千波万波

列車が消えた日
沈蕊蘭(シェン・ルイラン) 監督インタビュー

聞き手:江利川憲

実験映画的手法で

江利川憲(以下、江利川):監督は10年近く映画の勉強をされたあと、『Cassock』(2018年)という作品で北京国際短編映画祭最優秀中国映画賞を受賞されたそうですが、これはどんな映画ですか。

沈蕊蘭(シェン・ルイラン/以下、沈):私は基本的に実験映画を勉強していて、コンテンポラリーアートやビデオアートの作品をつくってきました。『Cassock』は私の卒業制作で、初めてドキュメンタリーとしてつくった作品です。通常のオーソドックスなドキュメンタリーとは違う、とよく言われるのですが、実験映画というのも違うかなと思っています。対象は、『列車が消えた日』の主人公と同じ何偉(ヘ・ウェイ)さんで、Cassock(カソック)とは僧侶が身にまとう袈裟のことです。長さは1時間弱で、『列車が消えた日』よりも、もっと人物に焦点を当てた作品になっています。

江利川:『列車が消えた日』の製作国は中国・シンガポールとなっていますが、これはなぜですか。

沈:製作にシンガポールの会社が入っていて、できるだけ多くの人に、特に海外の人に観てもらいたいので製作国にシンガポールも含めました。中国製作となると、検閲が厳しいので。

江利川:この映画は、カラー、モノクロ、ネガという3種類の画像で構成されていますが、その意図は?

沈:モノクロの部分は、その人物の現在の状況を描いています。カラーの部分は、列車に関連する映像になっています。普通はカラーの部分が真実だと見えると思いますが、実際はこの人物の現在はモノクロで表現されています。それは、真実とファンタジーが渾然一体となった状況を描こうと意図したからです。ネガを使っているところは、写真を現像するとだんだん画像が現れてくるように、暗いところから明るいところへ、そしてまた暗いところへ戻っていくという、生命の誕生と死をイメージするような効果を狙っています。

江利川:モノクロが現在だとすると、カラーのほうはファンタジーということですか。

沈:カラー映像の列車部分はフィクションで、一段高い精神世界の象徴でもあります。モノクロの現実と対比させるために、カラーにしています。で、私たち自身も列車に乗せられながら命を運んでいるのであって、真実と幻想の区別はそんなに判然としないのではないか、ということを表しています。ひとつ補足すると、列車の場面のナレーションは、私がいろいろな人の話を聞いてつくったもので、列車の乗客の記憶を表しているといえるかもしれません。

彼は何をしているのか

江利川:監督と、被写体になっている何偉さんとの関係はどういうものですか。

沈:それは、ある四川の寺院で法会があった時に彼と知り合って友達になったところから始まりました。彼は出家しようとしていて、私も仏教に興味があったので、話が合ったのです。

江利川:映画の中で彼は「寛遠(クァン・ユェン)師兄」とも「小何(シャオ・ヘ)」とも呼ばれていますが、どうしてですか。

沈:「寛遠」は彼の法名です。出家には至っていないのですが、修行をしている間に、師事している高僧から授けられた名前ですね。「小何」のほうは彼の愛称です。

江利川:その彼は、古大聖慈寺、昭覚寺などのお寺、誰かのお墓、あとは海とか山とか、いろんな所へ行くのですが、実際には何カ所ぐらいを訪れ、撮影期間はどれくらいだったのですか。

沈:撮影期間は2か月あまりで、訪ねたのは30〜40カ所です。その場所は、まず彼が行きたかった所、私が行きたかった所、そして彼の修行に関連する所です。フィルムカメラやデジタルビデオなど、6台のカメラを使って撮影したので、全体で何時間撮ったのかは分かりませんが、相当な撮影時間であることは確かです。

江利川:何偉さんは、成都(チョンドゥ)の駅員を3年務めて辞め、僧侶になりたいと思っていますが、まだ出家もしていないし、両親の同意も得られていないようです。そして各地を訪れるのですが、映画を観ている私たちは、彼が何をしているのかよく分からないのです。あえてそのように見せているのですか。

沈:彼がやっているのは「朝拝」というもので、各寺院を訪れて高僧の教えを請う、ひとつの修行方法なのです。そこには、出家にまつわる障壁を取り除くという目的があります。彼の場合は、両親の反対という障壁が大きいので。しかし、両親の許可がなければ絶対出家できないということはないのですが、興味深いのは、どの高僧も「あなたは両親の許しを得て初めて出家ができます」とおっしゃったことです。

 あなたの問いに戻れば、あえて説明を省いています。彼が出家に反対している両親と電話で話しているところとか、困惑している表情なども撮ったのですが、ラフカットでつないで何人かに観てもらうと、この人はなぜ出家をしたいのか、なぜ両親に反対されているのか、というところに非常に関心が集まったのです。私が本当に描きたかったのは、彼個人の生き方や両親との葛藤ではなく、もっと深いところにある人間の過去や潜在意識を開いていくことだったので、あえて実験的な手法を用いてこのように編集しました。人物に焦点を当てると、その人物がなぜそうなっているのかというところに注目されてしまうので、もっと抽象的なもの、精神性に光を当てたいと思ったのです。

中国における仏教

江利川:画面に出てくるお寺、菩薩像、墓参りなどは、私たちにはなじみ深いものですが、中国における仏教の位置や扱いはどうなのでしょうか。

沈:今の世は、末法時代ともいえるもので、そんな混乱した状況の中で、仏教は救いを求めるためのひとつの糸口、というふうに理解している人が多いのではないかと思います。ただ、そんなふうに現世的な、自分が救われたいとか、自分にとってメリットがあるとかではなく、本来の仏教というのは非常に深奥なもので、それは宗教であるだけではなく、哲学や人生観に深く結びついた深度を持つものだと思いますが、そういった仏教の面を学べる場所は現在では非常に少なくなっています。

江利川:中国では、仏教徒は少数者ですか。また迫害とかは受けていないのですか。

沈:仏教を信じている人は、かなりの数いると思います。ただ、現世的なご利益を求めて信じている人が大半であって、仏教の持っている真実にまで接近しようとしている人は少ないと思います。迫害についてはよく分からないですが、私が行ったそれぞれの寺院では、何に妨げられることなく、人は普通にお参りができていました。

江利川:監督ご自身も、現世利益的な仏教ではなく、もっと深い意味での哲学的な仏教に興味をお持ちなのでしょうね。

沈:はい、そうです。私自身も仏典を学んでいます。

ナレーションのこと、画づくりのこと

江利川:映画の中にナレーションがたくさん入ってきます。ラストクレジットには、ナレーターとして何偉さんと監督のお名前が出てきますが、監督がナレーションをされているのはどの部分ですか。

沈:映画が始まってちょうど1時間ぐらいのところで、列車の中で「今何時?」とか二言三言しゃべっているのが私で、あとのナレーションはすべて何偉さんです。

江利川:なぜそこにだけ監督の声を入れられたのですか。

沈:意図的にそうしました。そこまではずっと何偉さんがひとりでナレーターをしています。すると、観る人はナレーションが「画面に対する解釈」になっているという印象を受けていくのではないかと思います。そこに私が入って、ふたりの会話があると、それは画面に対する解説ではなく、ふたりがいるその空間は列車の空間であると同時に劇場・映画館の空間でもあり、私たちふたりは観客と共に列車の中という同じ空間にいて、スクリーンが列車の窓、あるいは出口になっているというイメージにしたかったのです。

江利川:なるほど。しかし、それはちょっと伝わりにくいかな(笑)。

沈:私はこの作品をオープンな開かれたものとしてつくっているので、このように理解してほしいと強く考えているわけではないです。観客が好きなように観てほしいですし、眠ってしまってもいいのです。夢もまたこの映画の一部なので。

江利川:あと、地震の話が何度か出てくるのですが、これは2008年の四川大地震(同年5月12日に発生、死者約7万人、負傷者約37万5千人)のことですか。

沈:そうです。

江利川:ナレーションで《自分が永遠で、偉大だと過信したため、大災害がもたらされたのだ》と入るのですが、これは中国では一般的な受け止め方なのでしょうか。

沈:一般的にはそういう受け止め方はしていないと思いますが、仏教の基本的な考え方として「因果応報」ということがあり、自然を傷つけた報いとしてこういう災害が起こっているのではないか、人間関係なら人を傷つけたからこういう目に遭うんじゃないかと捉えるのです。とりわけ中国古代の思想の中では非常に普遍的な考え方であったわけです。ただ現在の若い人は、そのように考えることはなくなってきていると思います。

江利川:全体的に画(え)づくりが凄いと思いました。特に最後の10分ぐらいは映像が走馬灯のように流れていって、まるで実験映画のような印象を受けました。画づくりには相当意識されて、注意を払っておられるのでしょうね。

沈:そうですね、それは私が中国美術学院で受けた教育と関係があると思います。もちろん視覚効果とかビジュアルの面にも気を使っているのですが、それと同時に意識しているのは音ですね。音が入ったときに、そこでどのような空間を形成できるかということを常に考えています。

江利川:最後10分の流れるような映像は、人生が流れていくというようなことを象徴しているのでしょうか。

沈:そういうことを意識して、特に最後の10分間はフィルム撮影した素材を使っています。仏教の考え方のひとつに、世界は動いているように見えるけれど、真なるものは凍結したように動かず、止まったもののように見えるはずである、というのがあるのですね。だからあのように画像を1枚ずつ見せていくという方法で編集をしています。で、最後に列車が消えてしまうわけですけれども、消えて灰燼(かいじん)に帰すというイメージでつくっています。

江利川:映画のタイトルも『列車が消えた日』ですね。

沈:この映画で私が表現したかったのは、何偉さんという個人のことよりも、それが現在から未来に向かって流れていく、しかも非常に暫定的な生命であるということです。それは記憶も同じで、固有のもの、確かなものではなく、常に流動的で、ある一定の期間だけそこに存在しているものです。タイトルの『列車が消えた日』は原題でも同じ意味ですが、では消えたあとどうなるのかは、観客の皆さんにオープンにしておきたいと思います。

江利川:そうですか。最後までとても丁寧に答えていただいて、ありがとうございました。

沈:(日本語で)ありがとうございました。

採録・構成:江利川憲

写真:阿部泰征/ビデオ:加藤孝信/通訳:秋山珠子/2023-10-07

江利川憲 Erikawa Ken
編集者・映画館役員。フィルムアート社に勤務後、フリーランスに転身。著書に『大阪哀歓スクラップ』(エディション・カイエ、1989年)。「映画新聞」編集スタッフを十数年務めたのち、1997年市民映画館「シネ・ヌーヴォ」の立ち上げに参画、2005ー2016年まで「大阪アジアン映画祭」に携わる。第1回、2回山形国際ドキュメンタリー映画祭「デイリー・ニュース」編集デスク、2019年は「アジア千波万波」の審査員を務める。