『不安定な対象 2』
ダニエル・アイゼンバーグ 監督インタビュー
『不安定な対象』プロジェクトの動機
阿部宏慈(以下、阿部):『不安定な対象 2』の上映会場をちょっと見ましたが、観客の皆さんが喜んで、非常に鋭い質問をたくさんしていたのを大変嬉しく思っています。
ダニエル・アイゼンバーグ(以下、アイゼンバーク):2回目(の上映後のQ&A)も本当に止まらなく、ものすごく真剣に食らいついてくるといった様子でした。私もすごく喜んでおります。
阿部:ありがとうございます。3時間という長尺で、これをじっくり観てくれる観客が山形にいることが大変嬉しかったんですが、同時に内容がドキュメンタリー映画としても特殊な対象を扱っている。この企画全体、非常に長い期間をかけての企画だというふうに伺ってるんですが、それについて少しお話しを伺いたいです。
アイゼンバーグ:本プロジェクトは2005年に生まれたのですが、今まであった労働ではなく、知能的労働がどんどんでてきた時期だったんですね。で、私が子どものころから10代にかけては、工場に働いている人は身近にひとりかふたりは必ずいると。そういう人たちがモノを作ったり、修理していて、モノが中心だったわけです。ですが、1995年から2005年にかけて転換期が始まって、デジタル文化が社会に台頭してきた時期と言っていいと思うんです。それまでは「made in USA」でアメリカで作っていたものが、だんだんモノの後ろを見ると、ほかの国で作られている。自分の日常生活を作ってくれているモノが自分が知らないところで作られているという意味ですごく疎外感を感じました。そしてまた、その価値というものも変わっていった。その年にはすごく高額なものでも翌年には4分の1になってしまうというように、そのスピードがそれまでにないほどすごく速くなっていった時期でもありました。
そして、そういうものを自分で理解したい、そういうプロセスがどのように起こっているのかを理解したいと。また、私が使っているモノを作っている人たちはどういう人で、どういう生活をしているのか、その人たちが感じるモノの体験というのは私が体験しているモノの体験とは同じなのか違うのかということを見てみたいと思い観察することにしたんですね。観察を始めていくと、理解が変わっていきます。最初の映画、『不安定な対象』では、いろんな感覚、視覚、聴覚、触覚だったりを扱う工場を選んでみました。最初のはドレスデンに高級車が手作りされている工場でしたが、それは労働というよりはそれ自体が見せ物、スペクタクルになっていた。人々は車に対してお金を払っているのではなく、車が作られている工程に対してお金を払っている。
2つ目の工場は、労働に関するパラダイムを考えたいと思いました。1つ目の工場では作る労働そのものがパフォーマンスになっていたわけです。それが比喩的な意味でも使われているわけなんですが、2つ目の工場で選んだのは、その1つ目の工場に対する反応として自分で選んだわけなんです。1つ目の工場はすべて視覚に訴えるスペクタクルのものであれば、2つ目はそのスペクタクルがないものということで、ビジュアル要素がないものを選びました。視覚障がい者の方が時計を作っているシカゴの小さな工場です。オフィスビルなど用の時計を作っていて、小さい工場ですべて手で触って作られている。すごく面白い場所で、そこで働いている人たちはお金のためだけではなくて、社交の場としてお互いに一緒にいて、おしゃべりするために働いているという部分もありました。
3つ目に選んだのは、今度は音を中心に選んでみようということで、シンバルの工場を選んだ。作る工程ってものすごくうるさいんですよね。そして音のマスターがいるわけなんですけれども、5人の職工さんたちがすぐ横に並んでいて、だんだんだんだん高度にスキルが上がっていくわけですね。5人目の人は本当にもう棟梁みたいな感じで、彼は最後に微調整する。非常に洗練されたプロセスではあるんですが、とてもうるさいんですね。
今回のシリーズ第2作で選んだ工場というのは、個人対マスを比較してみたいと選びました。1つ目は作るのもひとり、使うのもひとりというメゾン・ファブールを選んで、そして3つ目に移るに連れて、ひとりで作っているけど、それがいろんな人が使うようになると。1作目の逆をいくような感じですかね。
音が場所をつくる
阿部:そういう3つの工場を選んだ『不安定な対象 2』の場合ですと、いわば「ナラティブな構成」と言うんですかね。ナラティブな構成が、製造工程、プロセスそのものを追いかけていて、その追いかけていく過程が観ているとうっとりする、陶酔としか言いようがないような、そういう映像的体験に我々引き込まれていくような感じがしました。前のほうはどちらかと言うと音楽的な構成のように見えたんですが、『2』はそういうストレートな構成のなかで社会性というものが、たとえばルワンダの内戦で足を失ったバレーボールのアスリートが出てくるというところで見えてくるわけですが、全体的にはなにか説明的にならないというのが素晴らしいなと思いました。その辺、映像的な構成についてどんなふうに考えておられるのかを教えていただけたら。
アイゼンバーグ:鋭い鑑識眼をお持ちのようですね。観た学生に「構成がよりシンプルになってきた」と言われました。最初のを作りながら学んだのですが、自分の美意識を押し付けるのはやめたいと思ったんですね。もちろん映画というのはどうしても自分の基準や判断が入ってしまうので、完全に取り除くことはできませんが。音やイメージとかでわかるようにして、いろんなナラティブ的な過剰な情報を押し付けないようにもしました。たとえば観客はあの人たちがバレーの選手だということを知らなくても別にいいわけです。ただ、彼らが体を鍛えていそうとか、あるいは一生懸命義肢、義足をつけようとして、ぴったり入っていいなとかそういうことだけでいいんです。その共同作業がすごく美しいというだけでシークエンス全体の良い締めくくりになるのです。実は、義手をつけているほかの人のシーンも撮ったのですが、それがカメラに向かって演技しているような感じだったので選びませんでした。パフォーマンスのようなものだとフレームの外に、ある意味付けをしてしまうので、それはなくていいなと。 今回の映画というのは、おっしゃるようにより音楽的ではないかもしれませんけれども前回のものより音は多いんですよね。そしてより官能的、直接感覚に訴えるものになっています。
いたるところで、音が場所を作り上げています。たとえば、これはフランスなんですけども、フレームの外で聞こえている音、人が喋ったり笑ったりする声、機械音とかが聞こえるというのもいいなと思ったんです。お気づきになったかどうかわかりませんが、場所がここだというのを見せるのは15分ぐらい経ってからなんです。映画の慣例の逆を行っていて、普通は「場所がここです」というふうに見せるんですが、私は場所を音で紹介して、最後に「場所はこういうところです」と見せるようにしました。
阿部:まさにその手袋工場のところで、最初にミシンを扱っている女性の顔がクローズアップで出て、次に作業、手のところが出て、一体どこでなにをしているかわからない。手袋の革も細かいところで縫製をしているところの作業が映るだけなので、なにになるのかがわからないという状況から次第に移っていって、手袋を入れる型が映って、で、全体が映るというその入り方というのは、私はもう素晴らしいなと思いました。
アイゼンバーグ:ありがとうございます。私はいつもイメージとか音の作られ方というのを考え直させようとしているんですね。そのスペースを最初にワイドショットで、次にミディアムショットというのはいわゆる映画の慣例だと思うんですけども、それは慣れていて心地よいものではあるんですが、経験を平板にしてしまうと思います。観ている人たちが考え直さないんですね。それを壊してしまうと、さっきおっしゃったようにみんなが自問を始めるんです。「なにを見ているんだろう?」「なにが作られているんだろう?」「これ、どんなテクニックなんだろう?」と普通のことを疑問に思うようになる。私はその「普通のことを違う視点で考えさせる」ことを面白がっているんですね。
対象はどのように決めていく?
阿部:この全体の構成については、3部構成にするというのは前作と『2』で同じであるわけですけれども、選ばれている工場のあり方は前作のほうではビジュアルで、その次は聴覚の問題になって、最後はサウンドの問題になるというような3部だけれども、『2』のほうはあの3つというのは、たとえば一番最初のところでは義肢と工場を選んで、次に手袋の工場、それも高級手袋の工場を選んで、最後はトルコのジーンズの工場。これはどうやってそれを見つけてきたのかというところもぜひ教えていただきたいんですけれども。
アイゼンバーグ:どういうものが欲しいかというのはわかっていましたが、いろいろなところを探していて、それをどこが応えてくれるかで決まってくるわけなんです。義足、義手の工場はドイツにありましたが、実はアイスランドの会社にもコンタクトを取って、映画に映っているドイツのほうが先に「イエス」と言ってくれたのでそこで撮ったんですね。
手袋工場の中に入るのはちょっと大変でした。というのは、ブランド物ということでファッション業界ではイメージが大事なので、その素敵なイメージが作られているプロセスを映画作家に撮られるというのは、イメージが壊されるということで、すごく嫌がっていた。なので、なかなか大変だったんですが、了承を取り付けたのがあの映した工場だったわけです。
ジーンズはもっと難しくて。交渉のやり直しを何度か繰り返し、最後にデンマークのコペンハーゲンにある「ジャック&ジョーンズ」という会社に問い合わせをしたら、「うちはクロアチア、トルコ、イタリアと3つの国で作っている」と。全部に連絡を取って、トルコから「なにがしたいの?」と言われたので、自分の前作を送ったんですね。「僕はジャーナリストではなくて、ただその労働の記録を撮りたいんだ」と言ったら、「いいよ」と。
私は良いとか悪いとか批判するということはしませんでした。というのが、システムというのは個人とかひとつの会社よりもずっと大きいんですよね。そのシステムというのが社会主義だったり資本主義だったりなんですが。個人やそのひとつの会社がそういうシステムを変えられるというのは幻想だと思います。なので、私は、その時代の証言としてイメージや音を作ったりということしかしないんですね。自分自身の政治的な意見はありますが、それを押し付けたいとは思いません。ともかく、偶然というか与えられた機会が果たした役割が大きかったわけです。
阿部:このプロジェクトは今後も続いていくのでしょうか。
アイゼンバーグ:はい、作ろうと思っています。もともとの意図は3つの工場を撮った映画を3本作るということだったんです。それは私の映画的な野心だったわけなんですけれども、それを水平的、垂直的にも関連付けようと思ったんですが、あまりにも複雑すぎてそれはやめました。
3作目は、ロボット工学的な労働に移行していくことについての映画を作りたいと思っています。前作ふたつと違って次回のは、もっと短く、ひとつの工場だけと考えています。その工場は人間がロボットを作っているのではなくて、ロボットがロボットを作っている工場。そんなことがすでに起こってきているわけです。実は日本なんですね。富士山の麓にある工場で、間接的に連絡を取っていて、助けてくれるリサーチャーなどの方がいらしたらぜひ教えていただきたいと思っているんですけれども。
どこが歴史的な転換点なのかとはっきりと見えるわけではないし、時間がかかるわけではあるんですが、すでに移行期に入っているわけですよね。それをイメージで伝えたいと思っていて。私は一度博物館のプロジェクトに関わったことがあって、その時『Reworking Labor』(School of the Art Institute of Chicago Gallery, 2023)を出版し、その論文にも書いていますが、そういうロボット労働に移行する速度はコロナでより加速しているわけです。人間の労働というのがコロナで予期しにくくなってきたんですね。どうなるかわからないということで、ロボットの注文が、もう歴史上最高の注文数に達したそうです。また、AIというツールもでき、デジタル環境もどんどん置き換わっている。1年前になされた予測では、3500万人がアメリカで失業するだろうと言われていて、世界では3億人が仕事を失うと言われていましたが、実際はもっと多くの人が仕事を失っていると思います。なぜなら私が論文を書いていた頃は、GPT3が10億回線でしたが、1年経たないうちにGPT4というのができて、いま1兆という、もっと1000倍以上速くなっているわけですね。こういったツールのパワーは本当に加速度的に伸びていて社会をひどく不安定なものにしています。それが社会的にどういう構成になっていくのかがわからないというところに着目した映画を作りたいと思っています。
採録・構成:阿部宏慈
写真:細川巧晴/ビデオ:加藤孝信/通訳:富田香里/2023-10-06
阿部宏慈 Abe Koji
山形国際ドキュメンタリー映画祭理事。東北大学文学部卒、同大学院博士後期課程中退。20世紀のフランス文学、特にマルセル・プルーストの研究、ドキュメンタリー映画の理論的研究を専門とする。著書に『プルースト 距離の詩学』(平凡社、1993年)、共訳書にジャック・デリダ『絵画における真理』(法政大学出版局、2012年)など。