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YIDFF 2023 インターナショナル・コンペティション

三人の女たち
ヤニク・エケンシュターラー 編集者インタビュー

聞き手:藤岡朝子

 ロシアのウクライナ軍事侵攻が続く中、欧州連合(EU)は、ウクライナ人の渡航に寛大な特別措置を講じていた。しかしこれは、山形国際ドキュメンタリー映画祭2023に招待された『三人の女たち』のウクライナ人監督マキシム・メルニクの日本行きにとって何の助けにもならなかった。バーベルスベルク映画大学在学中からベルリンを拠点にしている彼が日本へ渡航するにはEU再入国許可証が必要だったが、書類の発行が間に合わないため、代わりに編集者のヤニク・エケンシュターラーが上映に合わせて来日することになった。

 インターナショナル・コンペティションでの上映には、興奮した面持ちの地元の中学生600人も参加し、ドイツ人編集者との質疑応答に耳を傾けた。舞台上でエケンシュターラー氏は、山形の風景が『三人の女たち』の村によく似ているとまず感想を述べた。山々に抱かれた村は、ウクライナの首都から遠く離れた西部の国境近くに位置する。隣接するヨーロッパは、風に流された風船の行先であり、山の熊が行き交いする近さにあり、村人が収入を求めて出稼ぎする目的地である。過疎の村は、やがて始まる戦争とは別の意味で、消滅の危機にあった。

 季節ごとに村を訪れ撮影を続けた監督たちは、カメラを回す時間よりジャガイモの収穫や牛を追う手伝いをする日々の方が長かったという。この映画は、村人たちにホレた映画製作者たちの記録とも言えそうだ。まるでウクライナ版『阿賀に生きる』(1992、YIDFF 1993)である。


――「三人の女たち」との出会いはどのようなものでした?

 マキシム(監督)にとって、この映画の製作は、個人的な旅路ジャーニーとなりました。主人公たちと親しくなっていき、繰り返し村に戻って撮影を続けました。ですが、いつか撮影に終止符を打つことを決意しなくてはなりません。やがて150時間の撮影素材を持ってドイツに戻りますが、それを編集する人が必要でした。私と出会うまで、彼は編集を始めていませんでした。これはとても珍しいことです。

 まず、この膨大な素材とどう取り組むのか、その方法を編み出さねばなりませんでした。私はほとんどウクライナ語がわかりませんので、まず素材を70時間まで抽出し、それから2週間、彼の通訳を聞きながら一緒に見ることに費やしました。その初見で、私には作品が見えてきました。引き込まれました。行ったこともないあの村にいるようでした。

 最初に見た数時間で、すでに感情があふれていました。マキシムが主人公たちと築いた関係性が映像に感じられ、それがこの作品の強さであり、彼の仕事の特徴だと思いました。村と人々の営みに対する距離が近い。この映画の最初の観客であった私を夢中にさせる素材で、すっかり魅了されました。「よし、この作品に取り組もう、すべてを見届けよう。これを映画にしたい」と私は言いました。

――観客は村人たちを好きになり、その世界に没入していきます。構成と編集技術で心が動かされ、やさしさ、人情、ユーモアのセンス、そして人間性に出会うことになります。

 私が伝えようとしたのは、最初に自分が映像から感じ取った時の感情であり、温かさであり、ユーモアでした。これが作品のエッセンスです。特に長編映画ですから、なるべく強く打ち出さなくてはいけないのはそれです。よかったのは、編集に2年かけることができたことです。この間、ロシアの軍事侵攻があったり、マキシムが忙しかったこともあって、作業をしない期間も結構ありました。検討しなおし、考えなおしながら何度も見返す時間が取れたのは幸いでした。気持ちがきちんと伝わるのか、そのタイミングがつかめているかを繰り返しチェックし確認することができたのです。

――作品が公開されたタイミングは、ウクライナへの世界的な関心と戦前の状況への興味と一致しました。でももっと早く完成させて次の仕事に移りたいと気が急きませんでしたか?

 出資者からのプレッシャーはありませんでした。低予算で、製作母体は大学だけでしたから。こういう学生プロジェクトには納品締め切りはなく、急がせる圧力はありませんでした。マクシムは常日頃から、締め切りに追われたくないと言っていて、より良い映画を作ることを第一義に考えていました。

――このスケジュール感が編集者のあなたにとっても齟齬がなかったとは、監督も幸運でしたね。

 濃密な作業プロセスを共にしていると、友情が生まれ、なんだかうまくいくものです。お互いの気持ちを率直に共有することができたし、休憩をはさんだ方がいいという感覚も以心伝心でした。私たち2人に大学の教員たちが3人、あとは新しいラフカットができると見てくれる友人数人、という少人数のチームです。かかわる人数はあえて少なくしました。

――ウクライナ語ができないということですが、その他の困難は?

 3人の主人公たちは各々すばらしい人でしたが、どうしてもハンナの比重が大きくなってしまいます。最初のラフカットはハンナの話ばかりでした。映画監督が村の農婦に恋をした、というような感じになってしまいました。私たちの課題は、3人のバランスを図ること。ハンナを削って、ほかの2人を強めてバランスをよくすることでした。ハンナが作品の感情的焦点となっていますから、ラクな任務ではありません。そういう部分はもっと見たい、もっとほしい、となりがちですけど、盛りすぎるとうまくないので、注意しなくてはなりませんでした。

――ハンナと監督についての映画になってもおかしくなかったのでは?

 この点はマキシムとだいぶ話し合いました。3人の誰ひとりでも単独の作品が成立しえたし、3本の映画を作ることもできました。ですがコンセプトは女性3人です。また、ハンナとマキシムの物語は、村の文脈やほかの2人の女性の文脈に埋め込まれた方が強くなります。大きな枠組みに置いた方が、個々人が問題と希望を抱えながら生きているのが立ち上がって見える。ハンナとマキシムの物語だけでは、甘すぎたり小さすぎる話に終わってしまう。村の全体の中の彼らのストーリーだと、空間と時間と感情が真実のものとして迫ってくるのです。例えば、経済という問題や、村に残されてるのがほとんど女性だということ。ハンナの周囲、彼女の暮らしている地域で何が起きているかが見えてくると、彼女自身の人生がより立体的に描ける。この土地における彼女の状況が理解されるのです。

――撮影には2人クレジットされていますが?

 最初は女性カメラマンのメレト・マデーリンと撮影を始めました。村に入って1週目にハンナに出会います。ハンナと最初の接触をしたのはメレトでしたが、それは女性同士の方がハンナも協力しやすかったはずなので幸運でした。事情があってメレトが続けられなくなった次の撮影には、フロリアン・バオムガルテンが参加しました。その頃になるとマキシムはハンナと知り合ってましたので、あとはご承知の通りです。まるで亡き息子や夫ら家族の代わりの「養子」みたいに2人を迎えるのです。映画で使われた映像のほとんどがフロリアンの撮影で、マキシムは演出と録音を担当しました。こういうタイプの映画は、少人数の撮影隊でないと成立しません。5人もいたらハンナの台所に入り切りませんからね。ハンナはフロリアンの名前がうまく発音できなかったので、彼のことを「ドイツ人」と呼んでいたのです。

―― 一番好きなシーンとその理由は?

 難しい質問ですね。マキシムが髪を切るすごく面白いシーンがあったのですが、散髪シーンは2つもいりませんし、カメラマンが髪を切ってもらってる方がストーリー的にも効果的で、冬の雪の場面が構成上合っていました。一番好きなシーンを挙げるのは難しいけど、ハンナとの最初のクリスマスのシーンかな。あのとき、2人の間で何かが起きていて、普通のドキュメンタリー撮影とは何かが違う、とずっと感じていました。マキシムが心を開き、カメラの前に立つ。このことに私はいつもウルっときてしまうのだけど、結果的にはこの作品の核となるシーンになりました。

――マキシムは当初、出るつもりはなかったのですか?

 予定していたことではありませんでしたが、編集コンセプト上の要点となりました。最初の頃は、観察するように撮影していました。マキシムが短い質問をして、短い答えを得る、という記者のようなアプローチでした。ですが主人公たち、特にハンナに近づきたいのであれば、同じ位相(レベル)に立って、自分もカメラの前に出なくてはならないと彼は感じました。そして始めたら、もう後戻りはできなくなったのです。そのとき彼は、この映画が自分の中から生まれてくるものであり、自分が何者であるかを明らかにするものでなければならないと悟ったのです。

――日常生活にある仔細な事柄を、厳しい現実にも関わらず温かいユーモアで見つめています。

 これは映像素材に映っていたのです。マキシムは、主人公たちと一緒に、気楽に楽しめる雰囲気と、あざ笑いや嘲笑ではない笑いを作りだす名士です。きわどい笑いでも、心を通い合わせて笑い合うとおかしい。とにかくやってみていました。郵便局でみんなの運勢を読むというシーンは、私も大好きです。この村で暮らす人たちにとって、生活が楽でないのは確かですが、彼らは楽観的に捉えています。監督はあのシーンでそんな彼らを描き出しています。マリーヤが年金の支払いをするとき、いつも人の輪が生まれます。マキシムはその輪に全員が入れるような状況を作ったのです。

――笑いは編集でも造形されています。

 そうですね、マキシムと私はユーモアのセンスが似ていましたから、現地で彼が何をやろうとしているのかわかりました。それを感じとって笑いました。そうなると、どこを切ってつなぐべきか、どうやって状況を見せたらいいのか、どこでリアクションショットを使えばいいのか、落としどころのタイミングがどこなのかがよくわかるんです。

 ドキュメンタリーを手掛けるとき、感情を際立たせてくれるシチュエーションに注目します。笑いの場面、メランコリーの場面、悲しみの瞬間さえ、シーンとシーンの区切り目やコントラストのきっかけになります。彫り出し構成すると、アップ・ダウンが作れます。ドキュメンタリーの編集では、真剣にそういう場面を素材の中から探します。その作業がことさら興味深いのです。

――最初はおかしみのある魅力的な人たちが紹介されますが、終盤には死と孤独というテーマが浮かび上がってきます。映画の構成や終わり方について、監督とどのように話し合ったのですか?

 始まりと終わりはいつも難しいのですが、特にドキュメンタリーはそうです。今回のエンディングは事前に計画されたものではないのですが、最後の撮影のひとつでした。霧が立ち込めるあの山のシーンで終わらせたいとマキシムはずっと思っていたようです。他の可能性についても話し合いましたが、いつもこれに立ち戻ったので、正しい判断だったと思います。

 おっしゃるとおり、村人たちの風変わりなところや、温かく優しいところを見ていきますが、物語が深まり、彼女たちにさらに近づくため、雰囲気を変えなければなりませんでした。彼女たちが何を望み、何を恐れているのか。重要な話題やテーマに踏み込んでいきした。

 そして、大事な話に入ります。どんなに2人がハンナと親しくなったとしても、彼らはハンナの家族にはなれない。それは常に明らかでした。その点が、素材の中にも感じられました。ハンナもそれに気づいていました。微妙な変化が映っています。そしてそれをそのまま映画に取り込みました。

――ギアの切り替えですね。

 そう、そしてそれを構成に織り込まなければなりません。どこかで別れの予感を準備しなければならない。彼女が山で鳥の話をするところでこのテーマの伏線を引き、何かが変わろうとしていることを空気で感じ取らせようとしました。

――物語の流れには、強引なところや無理は感じられません。

 生涯に一度でもこのような作品に出会えた監督は幸せです。そしてマキシムはとても幸運でした。主人公たちに何かを強要することはできません。ハンナという人は、カメラのためにここからあそこまで歩いてと言ったら、断るはずです。彼女を操作することは不可能です。これが、彼がカメラの前に出なくてはならなかった理由のひとつです。カメラの後ろから演出をするなんて、ある時点からもうありえなかった。だからこそ、あのような終わり方をしたのです。村にいると思ったら、現れたときと同じように唐突に、霧の中に消えてしまう。あの3人の女性たちの物語の終わりを、私たちが語ることはできません。彼女たちはまだそこに暮らしていろいろあって生活は続いています。映画を終わらせるには、私たちは去らなくてはなりません。そして、村での暮らしはつづいている。彼女たちにとってのTHE ENDではないのです。「さ、帰ります。映画は終わりです」という感じにしなくては。これは出演してくれた人たちに対する映画の作り手の倫理の問題です。

――本作はウクライナでも上映されましたか?

 村では見せていませんが、キーウの映画祭で上映されました。また先日、マキシムの故郷の町でも上映されました。村から車で2時間ぐらいのところです。村の人はそのことを知っていますが、マキシムは村での上映については躊躇しています。ハンナが望まないからです。日本やキーウで上映するのは構わないけど、村での上映には同意しません。村の人間関係はいろいろあるので。

――監督が戦争に行く恐れはありますか?

 いつかはウクライナに帰りたいと言っていましたが……。彼にとって次回作が難しいのは、作品作りの発想や興味がウクライナにあるからです。ウクライナに行けても、私やベルリンのほかの誰かと仕上げをするためにこっちに戻ることはできません。行くと決めたときは、何らかの方法で戦争に関わりを持たねばならないという決断になります。ただ、腹を決めたかどうかは、私は聞いてません。

――本作の後、何に取り組んできましたか?

 『三人の女たち』は2022に完成し、ドック・ライプチヒ映画祭でお披露目されました。その後、トゥルー・フォルス映画祭、ニューヨーク、アルゼンチン、フランス、ヴィジョン・デュ・レール映画祭、それからドイツで何回か上映されるなど続きました。私はと言えば、本作と並行して別の映画を共同編集しました。『花嫁の誘拐』という短編フィクション映画です。サンダンス映画祭で初上映されて審査員特別賞を受賞し、ベルリン映画祭で上映後、今は世界中を回っています。現在取り組んでいる企画はありませんが、『三人の女たち』の素晴らしい映像素材のあとだから目が高くなってしまっているのかもしれません。私自身が深く関われる、素材やテーマに共鳴できる、このようなタイプの仕事を続けたいと今は思っています。

――これまでの経歴は?

 私は地理学を勉強しましたから、社会と空間の関係に関わるという意味で本作と関連があったのかもしれません。その後、熱意のもてる仕事に就きたいと思ってバーベルスベルク映画大学で編集を勉強し、短編ドキュメンタリーやフィクション映画を編集してきました。本作が初めて手掛ける長編です。

採録・構成:藤岡朝子

写真:高橋奈成/ビデオ:大下由美/2023-10-08

藤岡朝子 Fujioka Asako
1993年より山形国際ドキュメンタリー映画祭のコーディネーターや東京事務局ディレクターを勤め、現在NPO法人 副理事長。ドキュメンタリー・ドリームセンター代表として2018年より「山形ドキュメンタリー道場」をスタートさせ、多くの優れたアジア映画の製作を支えている。日本映画の海外展開、国際交流を通したドキュメンタリー映画の製作・上映支援を目指す。