『紫の家の物語』
アッバース・ファーディル 監督インタビュー
ドキュメンタリーであっても、映画が撮るのはあくまで演出された人生である
(水のペットボトルの配置を調整するファーディル監督)
アッバース・ファーディル(以下、ファーディル):構図のためですよ。
藤原敏史(以下、藤原): 完璧な構図は重要です……と言うところでさっそくあなたの映画を論じる上で重要なポイントになりますが、この映画は見るからに緻密に演出されています。はっきりカット割して撮影したシーンもある。監督自身にとってドキュメンタリーであると同時に、まるでフィクション映画のように撮影されていませんか?
ファーディル:ああ、もうインタビューが始まってるんですね。目線はどこに向けたらいい? あなたを見るか、それともカメラ目線?
藤原:小津安二郎みたいにしたいなら、カメラ目線で。
ファーディル:さて……それはやめておきましょう。あなたを見た方が楽だ。
藤原:ではそのように。と言うわけで今のはすでにささやかな映画演出のゲームになっていたわけですが、こうした演出は映画の最初の方のシーンで、すでに出て来ます。例えばシリア難民の少年とヒロインのヌールの会話は、明確にふたつの、しっかりした構図の固定ショットで撮影されています。つまり演出されていることは一目瞭然なのですが、もちろん意図的ですよね?
ファーディル:我々は人生を撮っているのです。そして(映画として)撮影される人生には必然的に演出がある。いくつもの選択が関与するわけで、例えば構図、レンズの焦点距離、ひとつひとつのショットとシーン全体の長さ、そうした選択を怠けて、例えばカフェのテラスに座ってただ道ゆく人を撮るだけなら、映画にはなりません。選択しなければならない。通行人の誰に注目するのか、その人をどう撮るのか、アップなのか引きなのか、ショットの長さはどれくらいになるのか、それが映画です。映画とは演出されてシーンとして構成された人生であり、それはドキュメンタリーでも変わりません。
藤原:よくドキュメンタリーの作り手は自分は何も創造していない、ただありのままを撮っている、と言いますね。
ファーディル:嘘ですよ。ドキュメンタリーが現実そのものだと言うのは、現実にはあり得ない。自分が撮るものを設定し、カメラをどこに置くかを選択する。編集ではある一言を映画に残すかどうかでシーンの意味が変わる。映画の中ではこうした選択によってありのままの現実でもその意味付けが再定義されるのです。
藤原:この映画をなぜ、レバノン南部の息を呑む壮大な光景から始め、そこに聖書の創世記によく似た、ただし主語のはずの「神」が抜けているテクストを聞かせたのか、このあなたの選択について話してもらえますか?
ファーディル:これまで撮って来たすべての映画は、自分が実際にどこに住んでいたのかに深く関わっています。つまり、自分が生きている場所とその人々についての映画です。『祖国 ― イラク零年』(2015、YIDFF 2015)はバグダッドとそこに住む自分の家族から始まり、家族を見せることで次第に国の全体像を明らかにしていく。まず私の家族、そして近所、バクダッド、最後にイラク全体、という構成です。同じ原理は『紫の家の物語』にも当てはまります。まず家から始まり、その家がある村、そしてベイルートに辿り着く。つまり一般論として場所がとても重要なわけですが、この映画では風景はとりわけ重要な意味を持ってしまうことが避けられない。あんな風景の中では、我々映画作家はその圧倒的な風景の中に自分の映画的エクリチュールを刻印することで自分がその壮大な世界の一部であること、自分が大地、空、雲、木々と同様にその構成要素であるに過ぎないことを確認するしかなくなるのです。その文脈で自分の身近な人々の物語を語ることで、我々は大地そのものの物語を実は語っていることになります。
藤原:社会とその文化、国そのものの中核に家族がある。
ファーディル:その通り。それが町や人々、ひいては国を発見していく最良のやり方だと思うし、そうでなければ映画ではなくルポルタージュ、戦争があろうがなかろうがどこかの国をただ訪れたジャーナリストがランダムな映像を集めてナレーションで説明をつけて報道することにしかならず、その国についてなにも真実は伝わらずに終わってしまうでしょう。現実を映画にするには、その場で生きなければならない。その意味では自分の生まれた国で映画を撮った方が、観光客のようにただ訪問するよりは、事前によく知っていることを映画にした方がいいのは当然でしょう。
藤原:しかしその意味でもこの映画の冒頭には驚かされます。あなたはイラク生まれで、砂漠の国でしょう。レバノンは豊穣な土地で、映画はその恵まれた自然を見せ、語っています。
ファーディル:アラブ人全般にとってそうなのでしょうが、とりわけイラク人にとっては、レバノンは天国を思わせる土地なのです。まず人気歌手のファイルーズの歌があって、この映画でもずいぶん使いましたが、なによりも自分たちが砂漠の民だからだと思いますね……。コーランの天国の描写は、レバノンの風景に基づいているんですよ。山や木々、川、果物、すべて映画で見せています。これもコーランを書いたのが砂漠の民だからでしょうね。砂漠の民からしたら天国とはどんな場所だと想像するのか? 豊かな水、川、果物がふんだんに実って……その全てがレバノンには実際にある。
藤原:それはユダヤ教の律法の書、つまりキリスト教の旧約聖書も同じですよね。「出エジプト記」でモーセが民を導くのは……「乳と蜜が流れる土地」です。
ファーディル:まさに。
宗教・宗派対立を西洋植民地主義に押し付けられたレバノン社会と、アラブ=イスラム社会本来の寛容性
藤原:その意味で、この映画は宗教的なんですかね?
ファーディル:それは違う! というか、問題は宗教をどう定義づけるかでしょう。私にとって信仰とは宇宙を感じることです。なにか特定の信仰は持っていませんし、育ったのはアラブ人のイスラム教文化ですし、とても愛着はありますが、信者ではない。宗教を必要としている人がいることは尊重しますが。ただ現代の世界で宗教はなんというか……神を讃えることになってない。ほとんどの宗教で神は人間の、人為的なスケールに貶められている。なにやらせせこましい存在というか、細々としたことにこだわり、心が狭くて意地悪ですらある。神は復讐にばかりこだわり、人間が何をやったのか、あるいはやらなかったのかの細々したことばかり気にしているようにみえる。この映画では逆に世界・宇宙は無限に壮大で、人間こそが小さくその宇宙の一部でしかないし、しかもそんな人間が宇宙とみなしているものすらもっと大きな何かの一部でしかないのではないか。それが私の宗教というか、宗教的というより精神的な考えです。
藤原:一方で宗教はレバノンの政治にとって切っても切り離せない要素でしょう。政治制度自体が複数の宗教の区別に基づいて、どの宗派が政府のどの要職につくのかすら決まっている。
ファーディル:宗教というより、宗派別制度がかつてのフランス委任統治の植民地支配によってレバノンに押し付けられたからに過ぎません。他のアラブ社会のどこでもと同様、かつてはそんな区別が存在しなかった。パレスティナですらイスラエル建国の以前には、ユダヤ人もキリスト教徒も特段の区別なく、むしろ友好的に、イスラム教徒に混ざって暮らして来た。だがレバノンではフランス人たちはマロン派、つまりはキリスト教徒をいわばえこひいきして、 宗派対立で社会が分断するように仕向けるために、憲法にすら大統領はマロン派と明記させた。以来、レバノン社会は発展・変化して、人口比率ではシーア派イスラム教徒がいちばん多い。だから憲法上・政治制度的に不公平に不利な立場に置かれたシーア派を擁護するためにヒズボラのようなシーア派組織が台頭しているのです。
しかし個々人のレバノン人にとって、宗教とはそれぞれがどのような関係を神と結んでいるのでしかない。ただその本来は個人の関係であるものが、政治によって不自然なものになってしまっている。
藤原:そうした部分が世界の他の場所では完全に誤解されています。というか主に西洋でですが。実際にアラブ諸国に行けば出会う人たちの多くはイスラム教徒なわけですが、まったくメディアが伝えるステレオタイプには合致しないことばかりです。
ファーディル:まったくです。ただ、イスラム教はヨーロッパでも南部では最長で9世紀の期間はそこにあった。スペインやシチリア島ですが、なにが残っていると思います?
藤原:えーと……グラナダ?
ファーディル:そう、建築くらいしかない。イスラム教徒は追われてアジアやアフリカに戻ってしまったか、キリスト教への改宗を強要された。逆にアラブ=イスラム世界ではキリスト教徒もユダヤ人も今日に至るまでそのまま暮らし続けて現代に至っています。まあユダヤ人の場合は今は問題がありますが、イスラエルの建国以前にはどこにでもアラブ社会のユダヤ人がいた。イラクでも、エジプトでも、チュニジアでもモロッコでもユダヤ人は社会の重要な一部でした。イスラエル建国でユダヤ人は去らざるを得なくなりましたが、キリスト教徒の立場は今も変わりません。迫害も追放もされていない、ということはアラブ=イスラム圏の文化は他者に対してとても寛容なのですが、西洋では誰もそんなことは知らない。
藤原:知りたくもないんでしょう。アラブ人を野蛮で乱暴だと考えた方が楽ですし、実際にはキリスト教こそ世界中で最も不寛容で排除の傾向が強い宗教であることを認めたくない。しかしあなたの映画では遠景で教会の塔が見え、物語の展開に合わせて次第に近づくと隣にモスクがあると気づく。最初はよほど注意深い観客しか気づかないでしょうが、しまいにはなんのことなのかが誰にでも分かるようになっていますね。
ファーディル:そこがとても重要なんです。最初の長編映画の『Dawn of the World』(2008)をスイスで上映した時、ちょうどモスクの建設を許可するかどうかで国民投票が行われていて、なんと否決されたんです。すでにスイスにはモスクが4つあったのに5つ目を許すかどうかが問題になり、国民はノーを突きつけた。記者会見でこう言いましたよ、「いったい何がそんなに怖いんです? スイス人がイスタンブールに行ったら喜んでモスクの写真を撮ってるじゃないですか。カイロでも同じだ。モスクは文化センターみたいなもので、なにも恐れることはないはずです」。つまり、何事でもイスラム教と関わった途端に反応がまったく不条理になる。
藤原:対照的に、映画のヒロインのヌールはシリア難民の少年ととても親しくしていますね。我々には聞き分けられないのですが、同じアラビア語でも訛りに違いはあるのですか?
ファーディル:はいはい。ただしレバノンとシリアは隣接していますから、イラク方言とレバノン方言、あるいはエジプトとレバノンほどの違いはない。シリア方言とレバノン方言はとても似ています。
藤原:なるほど。映画ではあなた自身の声は聞こえないわけですが、アラビア語が母語の観客ならあなたがイラク人だと分かってしまうものなんですか?
ファーディル:場合によりますね。そもそも私のアラビア語がもうイラク訛りではない。若い頃にイラクを離れ、フランスではアラブ圏のあらゆる場所出身のアラブ人と話しますから、あらゆるアクセントのごちゃ混ぜが私の話すアラビア語なんです。レバノンではイラク方言とレバノン方言のごちゃ混ぜで話すので、私がレバノン人ではないとは分かってもイラク人とは思わないかも知れない。モロッコからイラクにかけて出身のアラブ人ならこの映画に字幕は要りません。アルジェリアは違って、他のアラブ人にはほとんど聞き取れないほどですが、モロッコからイラクにかけては基本的に正則アラビア語とそう違いはない。
藤原:西洋や、日本でも、忘れがちなことなんですが、中近東ではどこでもアラビア語が通じるという意味で、実は国際共通語なんですよね。
ファーディル:全くその通り。
藤原:この映画の主な舞台も、小さな村のように見えながらアラブ世界全体から来た人たちがそこを通り抜けていくようにも見えます。その意味で、まったく閉ざされた場所ではない。この場所を選んだ理由のひとつですか?
ファーディル:まあ、それは先程も話した映画の核となる部分だからです。『祖国 ― イラク零年』では最終的にイラクという国の全体にまでは到達しましたが、『紫の家の物語』では……宇宙にまで行くのかも! ひとつの国に留まらず、宇宙全体にまで映画が広がりたい、という野心がありました。
藤原:レバノンの壮大な風景がその野心を可能にした?
ファーディル:その通り。
フランス政治、西側社会に幻滅してレバノンへ
藤原:ではそもそも、なぜレバノンなのか? フランスに住んでいましたよね?
ファーディル:偶然みたいなことです。確かにフランスには住んでいましたが、永年そこで映画を撮る気が起きなかった。パリが舞台で若者が若い女性に出会って……フランス人ならとてもうまい映画にしますし、そういうフランス映画も好きです。エリック・ロメールは恩師だったし、彼の映画は愛しています。
藤原:ロメールが!?
ファーディル:そうですよ。でも自分がロメールのような映画を作るのは想像がつかない。それでも、フランスでも田舎でなら映画が撮れるのでは、と思い立って、facebookに告知を載せてみた。映画を撮りたいのでどこかいい村の候補はないか、古い村で、まだ人が住んでいる村がいい。今のヨーロッパの地方では多くの農村が見捨てられている。都会の人間が移住している村はありますが、そういう村では村落共同体の精神性はない。そこでいろいろな人が写真や動画を送ってくれたのですが、どれも私のアイディアにはしっくり来なかった。そんな時にレバノンの友人のヌール・バドゥークが……当時はまだ結婚していなかったわけですが……電話をくれて、「私の住んでいるところではどう?」と言ってくれたのです。
藤原:本当ですか。つまりフランスの村についてのフランス映画のはずが……
ファーディル:フランスの村が見つからない! ヌールが提案してくれた場所は以前から知っていて、確かにとても美しい村です。この前に『Yara』(2018)という映画をレバノン北部で撮っていて、この時の撮影場所は自動車では行けない、徒歩かロバに乗って1時間ほどかかる谷で、150年前からあらゆる建造が禁止されて来た保護区です。自然がありのままに保持されていて、そのことがとても重要だった。撮影しているうちにレバノンに恋してしまい、編集も自分でやるのだからレバノンでやることにしました。こうしてレバノンで編集してポスト・プロダクション作業も行い、レバノンに居続けて今や結婚までしたわけです。
藤原:今はレバノンに住む方を好んでいるのですね。
ファーディル:はい。ひとつには、もうパリには居たくないのです。仕事の関係で時々戻ることはありますが、パリと、特にフランス社会の最近の変化には幻滅しています。フランス語は今でも好きですしフランス語で小説も書いて、近々出版されますが、今ではフランスとは離別したと言っていい。特にフランスの政治、あるいは西側の政治全般とは。アラブ人がどれだけ虐殺されてもまるで関心もないのに、アラブ人やイスラム教徒がなにかをしたらどういう騒ぎになるのかは、今もご覧の通りです。
藤原:ええ、とても残念なことに偽善的なダブルスタンダードがすっかり当たり前になってしまいました。
ファーディル:分かるでしょう。西側のイスラム恐怖症に耐えられなくなってしまった。緊張や恐怖なしに暮らせる方がいい。たとえレバノンでも……というか、今の世界で最大の経済危機はどこか分かりますか? レバノンですよ。インフレは破滅的で、1,000ドル相当の銀行預金が翌日には5ドルの価値しかなくなるほどです。それでも映画で見ても分かるように、レバノンの人々は人生を楽しんでいて、ユーモアたっぷりだし、とても親しみ易い。
藤原:そこもこの映画で驚くところです。壮大な風景で始まり終わる映画ですが、よく見ていると次第に、実は人々がキャンプをしたりしているのが分かる。自然を、人生の与えるものを貪欲に楽しんでいる。
ファーディル:幸いなことに。長年に渡って壊滅的な経験を何度もしているからこそ、本当に重要なことがなんなのかわかっているのです。例えば美、自然の美しさもそうでしょう。だから夕方5時に仕事が終わると思い思いに水パイプや食べ物を持ち寄って山に登ったり自然の中に散策に出かける。
藤原:つまり、あれは日常の風景なのですね!
ファーディル:ええ、レバノン中でそうなのですが、特に南部では盛んですね。夕日があまりに綺麗なので。私はなにも創造していません。空は美しいし、山もそう。特殊効果なんて不要です。彼らはああして山に登って風景を見ている。テレビを見たりラジオを聞くよりも団欒になるのでしょうね。ニュースは悪い話ばかりで、戦争だったり、経済危機だったり燃料不足だったり、そんな話しかない。だったら生きていることそれ自体の永遠の美に浸った方がいいに決まっています。
レバノン社会の直面する危機、それでも人生を貪欲に楽しむレバノン人たち
藤原:まるでこの小さな村がある種のユートピアに見えて来ると同時に、それでも現実の例えば政治も、テレビから聞こえてくる音声などで介入してくる。政治的な文脈は直接には言及されませんが、日本の観客に少し説明をお願いできませんか? というのも日本ではレバノンといえばカルロス・ゴーンくらいしか報道されず、なんとなく政治が腐敗した国なのだろうくらいにしか分かっていないので。
ファーディル:世界一腐敗した政府かも知れませんよ、政治エリートの上層階級は。だいたい犯罪組織のボスや、レバノン内線時の戦争犯罪人、軍閥や犯罪的な手法で蓄財した実業家が多い。
藤原:まさにゴーン氏だ。
ファーディル:彼こそがレバノンの政治的・経済的上層階級の典型です! だからこそコネもすごい。上層階級に友人も多く、英雄として崇められている。国家的な英雄は作家だったり音楽家であればいいのですが、レバノンの支配層にとっては彼こそが英雄なのです。そんなゴーン的な現象がある一方で、国民の圧倒多数は貧困状況で、海外に移民する人も多い。過去150年、レバノンでは戦争、内戦、飢餓など危機が続き、常に移民大国でした。むしろ海外でこそ繁栄して来たのかも知れません。ブラジルには1千万人のレバノン系がいて、レバノンの人口は600万です。つまりブラジルには国内の倍近いレバノン人がいるわけで、今の危機が続けばより多くの若い世代は国外に行こうとしています。まだ出国していないのはお金が足りなかったりパスポートがなかったりするからで、彼らが国の未来であることを考えると深刻です。
藤原:映画の第3部はデモから始まりますが、撮影は2、3年前でしょうし、その後こういう大衆運動はどうなったのですか?
ファーディル:撮影終了は2022年の3月です。1年半前ですね。ただ長引く経済危機で人々は疲弊してしまった。デモはかつてほど盛んではありません。状況は経済も、政治腐敗もさらに悪くなっています。でも国民も疲れてしまったし、デモはなんの結果ももたらさなかった。ひとつには、政権にとって代わる勢力、例えば野党がないので、デモを続けても権力は握れない。
藤原:つまり国民を代表できる政治勢力がない。
ファーディル:まさに。最近の選挙で「独立系」と言える小さな政党が2つ現れて、3つ議席を取りましたが、3人ではなにも変わらない。しかもこの3人は映画でも見せたデモに参加していたのに、すっかり腐敗に取り込まれてしまった。つまり、希望がない。ある意味でこれこそがこの映画の秘めたテーマとも言える。もはや我々には美と芸術しか残されていないのかも知れず、では芸術は我々を現実から救ってくれるのか? それこそが自然の美しさも含めてこの映画で美しいものを撮りながら私がやりたかったことです。美や芸術は我々が人生を信じ続けるのに足りる存在なのか?
藤原:あなたはレバノンにおいて異邦人なわけですが、それでもこの映画は「愛国的」と言えるのかも知れません。
ファーディル:いい意味で? それはそうでしょう。今や自分がレバノン人のように感じている。皮肉なことではあって、本物のレバノン人は国を出たがっているんだから! 例えば、私は南部に住んでいますが、まともだったらやらないでしょう。イスラエル国境から20kmくらいしか離れていない。イスラエル人がヒューマニストとは言い難いし。
藤原:ユダヤ人どうしではヒューマニストなんでしょうがねえ……。
ファーディル:その通り! 自分たちとは異なると認識した相手を空爆する時には、カケラもない。つまり、そんな国境近くに住もうと思うのは、まともではないわけです。 地元で生まれ育ったレバノン人も離れざるを得ない……というか、爆撃と共に生きるか、レバノン人として偏見に満ちたステレオタイプで見られる国外に行くかの選択を迫られている。それでも現実の生活は、この映画で見せた通りでもある。様々な困難に直面しながらも日常を続ける人たちによって、レバノンは生き続けている。レバノン人以外で誰がこんな状況で生き抜けるのか、と思うこともあります。今や政府なしで生きること、行政に頼らない術も身につけてしまった。
藤原:行政と言えるものがない。
ファーディル:まったくない! 大統領職は何か月も機能停止しているし、議会も同様で、各党は後任の大統領の選任でも次回の選挙の日程でも合意ができない。だから大統領も議会もないも同然です。そこで暫定政権として前任の大臣が一応は座に留まっているのも、後任を決める首相はまず大統領を選任してその大統領が任命しなければならない。行政サービスもストップしているので水道も止まり、電力供給もおぼつかない。我が家では選択肢は3つありました。2、3時間だけ通電するのを一日中待っているか、民間の電力会社と契約することはできますが月間で200ドルから300ドルかかる。レバノンの最低賃金がだいたい月給100ドルなのに。
藤原:めちゃくちゃ高い。
ファーディル:しかも民間業者ですら電力は安定していない。そこで我が家では解決策を見つけました:ソーラー・パネルですよ。もっともこれだって、うちは収入があるから買えるのです。ほとんどの家庭では無理でしょう。水も同様で公営の水道は週に数時間しか使えない。水も自力で確保しなければならない。機能する政府がないからです。ゴミも2週間も回収されないのはざらです。衛生的とは言えないし、それでも生きなければならない。
藤原:そうした具体的なことは、映画では見せていませんね。
ファーディル:それは避けました。映画の主題を歪めかねない。具体的になにが起きているのかを見せるルポルタージュではないので。
藤原:新型コロナについては具体的な言及がありましたが、映画の全体は時代を超えた感覚ですね。なにか特定の時代に根付いた作品には、あえてなっていない。
ファーディル:まさに。そして意図的な選択です。むしろ映画の視野を広げるために、宇宙にまで話を広げました。
映画に散りばめられた古典映画の引用
藤原:古典的な映画の引用を散りばめたのも、つまりあえて現代の映画は選んでいないのも、そうした選択の一環に思えます。
ファーディル:はい、もちろん。2通りの説明ができます。まず映画狂として、小津やタルコフスキーやベルイマンの映画を100回見直す方が楽しいのです、例えば……クリストファー・ノーランの最新作よりも。とは言ってもいくつか見てはいるわけで、レバノンではどんな海賊版も入手可能ですから! でも新作の映画は、5分や10分見るだけでやめてしまいます。興味が惹かれない。私にとって必要なのはある人々や場所、国や、私が生きていく上で本質的なものを映画が表現していることであって、いつも結局は同じストーリーで似たようなアクションで、カメラ・アングルが多すぎて編集過多の映画はちょっとね……。ちゃんと見ること、顔や風景を見つめることができないと、興味がなくなってしまう。日本人観光客についてのジョークがあるでしょう。1週間でヨーロッパを周遊するので、パリに1日いて、翌日はロンドンの予定で、エッフェル塔の前で観光バスが止まって、ただ写真を撮る。どこかの庭園でバスが止まってまた写真を撮る。ローマに行っても同じことを繰り返す。実はなにも見ていない。家に帰ってからやっと写真を開いて「パリに行った、ローマにも行った」と言うためだけです。アメリカ映画や、最近の西側の映画全般と言ってもいいでしょうが、これと似たようなものです。何かを知らせて理解させようとはしていない。ただ映像があるだけです。
藤原:なるほど、確かに引用されているシーンはいずれもアップではなくとも、はっきり人間の顔が見えるものばかりです。最初の引用は『赤い砂漠』(1964)のモニカ・ヴィッティで、不思議なことにヌールに似てますよ。
ファーディル:確かに……自分もそう思ったことは認めます。でも本当に、引用している映画は自分が好きで何度も見ているからで、ふたりで一緒に見たんですよ。それで見ている最中に「あ、これは自分の映画に使える」と思い始め、そうすると見た映画を意識するようになりました。同じ構図にしてみたり、彼女にはモニカ・ヴィッティと同じような眼差しをするように頼んだり、映画の引用が演出の一部になって行きました。ただ窓枠の中に見える画ではなく、自分のやっていることと自分が愛する映画のあいだに対話が生まれる。
藤原:特に驚かされるのが、小津の『彼岸花』(1958)からの引用です。田中絹代が戦時中のことを回想して、苦労はしたけれどあの時の方が家族の絆は強かった、という。
ファーディル:あれは『祖国 ― イラク零年』でイラクで体験した中でも、最もショッキングな体験でした。妹が姉妹や兄と一緒の部屋にいて「これからはいつも同じ部屋で一緒に寝よう」と言い出す。兄が「なぜ?」と尋ねると、妹は「爆弾が落ちて死ぬとしたら、みんな一緒に死ねるし、生き延びるのもみんな一緒だから」と答える。『祖国』のあとで小津の映画を見直した時に、まったく同じ話が出て来て驚き、魂が出会ったと感じました。
藤原:戦後の小津作品には必ずと言っていいほどああした戦時中の回想がある点でも、とても重要な引用でした。しかもあまり批評家には指摘されていない。
ファーディル:矛盾ですよね。4人家族の結束は戦争中の方が強かった。
藤原:なのに戦後の社会では、まさに小津も描いた通りに家族の絆はどんどん弱まっていく。あるいは人間関係そのものと言っていいのかもしれません。より浅薄で、表面的になっていく。
ファーディル:まさに『彼岸花』の物語で、特にエンディング。だからこそ力強く心に突き刺さる映画になる。小津はメロドラマを好まないので感傷的には陥りませんが、失われていく世界がそこにある。
藤原:そういったことは『紫の家』についても言えませんか?
ファーディル:それは困ります! 今レバノンで幸せなんですから、その世界が消えていくとは思いたくない!
藤原:撮影後に娘さんが産まれたんでしたっけ?
ファーディル:終わりの方のシーンでヌールは妊娠しています。山に行くシーンですね。
皆が映画のテクノロジーについて気にし過ぎている
藤原:この映画は撮影クルーなしで撮っていますよね。
ファーディル:はい、私だけです。『祖国』以来このやり方で、『祖国』『Yara』『Bitter Bread』(2019)と本作で、大きな国際映画祭に招待されるような映画を4本、ひとりでちょうどあんなカメラで(インタビューを撮影中のカメラを指さす)作りました。録音は妻が自分の出演場面でない時にはマイクを持ち、シリア人の少年もずいぶん手伝ってくれた。映画では、皆がテクノロジーについて騒ぎすぎる。教えている時には学生にはそんなのは忘れるように、と促します。トラックいっぱいの機材とか大人数のスタッフとか。『祖国』の前にフィクション映画の『Dawn of the World』を撮った時には35mmのカメラで、私だけで助手が4人もいて、膨大なスタッフがいて、この経験にはとてもとても苦しんだ。基本ふたりだけの登場人物のシンプルな映画のはずなのに、恋する娘の目の前に50人ものスタッフが並んでいる。本当に必要なのだろうか? いいえ。重すぎる、金がかかり過ぎる、時間もかかる、こんなやり方はもう無理でした。映像については確かに知識も鍛錬も必要ですが、音声はブーム・マイクがあって人物にはピンマイクをつけて、ズームする時にはブームが画面に入らないようにやたらと注意が必要になる。もちろんクリアな音は録れますが、絶対に必要というわけではないでしょう。やり過ぎです。あんなやり方で映画を撮っていては人生複雑になり過ぎます。
藤原:それに今の技術では、このような小さなカメラで『紫の家』の冒頭のようなクオリティの映像も撮れる。
ファーディル:そうそう。もちろんこの部屋に誰かがもっと大きなカメラを持って入って来ても、彼(撮影の加藤氏を指さす)が撮っているほど美しい絵は撮れないかもしれない。目と、それに鍛錬が要る。それが映画とただの報道映像との、映画作家とジャーナリストの違いです。私の感覚では画家のようなもので、どう見るか、変化をどう構図の中に捉えるのか、光に注意を払うこと、光に応じて構図を決めていつ構図を変化させるのかを知らなくてはならない。
藤原:特にこの映画では、いつの光がいいのかを知ることは、根本的に重要だったはずです。
ファーディル:そうそう。それが撮影の喜びであり、私には自分でない誰かがカメラを操作して撮影することが想像できないもうひとつの理由です。また学生に「なんでもできるように学べ」と教えています。映画を撮るのは、作家や音楽家とは違う。もちろん『スター・ウォーズ』なら話は別で、ふたりの人物を小さな寝室で撮るのとは違う。それでもひとりで映画を作ることは全く可能だし、可能なのだから挑戦すべきです。よくマスター・クラスもやるのですが、私に会うまで多くの学生がそんなこと思いも寄らなかったみたいです。いつも教わっているのはまず脚本を書き、プロデューサーを見つけ、返事を待ち、今度は撮影監督や編集者を探して、としか教わっていないのでしょう。私は待つ必要なんてない、と教えています。もし本当に撮りたくて、主題があるのなら、どんどんやればいい。ゴダールも同じことを言っていました。ある時映画学校に招かれたゴダールは、代わりに学生たちのために手紙を送った。「ハエについての映画や、洗濯機の映画をオファーされたら、まず撮れ!」と。「『カラマーゾフの兄弟』や『戦争と平和』をオファーされるのを待つことはない」。大きな題材を待つことはない。身の回りのあらゆるものは、映画になるべき価値を持っている。大きなカメラや50人のスタッフを待つな、アカデミー賞を狙うな。これはいいアドバイスだと思いますね。
藤原:それがこういうカメラの登場で可能になった。
ファーディル:もちろん。だからこそ利用すべきです。私が映画作りを始めた頃には、最も手軽なカメラでも16mmでした。それでも16mmはまだ高いし、まだ大きいし、重い。自分のような映画は作れなかったでしょう。
藤原:それに撮影時間は最長で10分です。
ファーディル:その通り。それに大きなカメラは目立ちます。小さなデジタル・カメラなら「カメラを見て」とでも言わない限り誰も気にしない。
藤原:あなたにアイスを渡す少年のショットもありましたよね。
ファーディル:そうそう、カメラをまったく気にしていない。自分の声を入れたくなかったので「ありがとう」と言えませんでした。カメラを片手で持って空いた手で受け取らなければなりませんでした。
藤原:一方で観客にとってはカメラのフレームを意識させられる瞬間でしたが、フレームを意識することは映画全体を貫通するテーマでもありませんか?
ファーディル:映画とはフレームの内と外の問題です。今は撮影はしていないけれど、もし撮影を始めるならまずあなたをどこまで撮って、どこからを画面外にするのか決めなければならない。
藤原:絵画用の空の額縁もあって、その内側に花を配したりしていますね。
ファーディル:ええ、映画がフレームなしには存在しないことを意識するためです。
藤原:それに映画の引用でも、モニターは常に窓の前にあって、窓もまたフレームです。
ファーディル:まったくその通り。フレームの中のフレームだけでなく、フレームの脇のフレームです。特にベルイマンの引用では、映画の中でも人物が窓を開ける。何をやっているのかまだ気づかない観客がいた場合のための、念の為ですが。
藤原:あれはやり過ぎに思えましたよ。予測できてしまった。
ファーディル:でもね、誰もがあの映画をそこまで暗記しているわけではないから。
偉大な巨匠たちの時代が去った後の、映画の未来
藤原:あなたにとっては暗記しているに近い映画ばかりなのでしょうね。
ファーディル:はい。私は「クラシック」という言葉は嫌いなのですが、確かにクラシックな真の名画というか、作家映画です。というのも今は、少し映画に飽きて来てもいるのです。ワン・ビンやヌリ・ビルゲ・セイランは、好きです。でも例えば現代のアメリカ映画の監督は、興味が湧かない。
藤原:フランスの若手の映画も……
ファーディル:「新たなる良質のフランス映画」なんですよ。ヌーヴェルヴァーグの、カイエ・デュ・シネマの若者たちは「良質のフランス映画」に叛逆した。カイヤットとかドラノワなどの映画ですね。今の若手のフランス映画を私は「新たなる良質のフランス映画」と呼んでるんです。なんについての映画なのかは最初から分かっている。カップルの、個人的な、私的な世界で……。かつてはモーリス・ピアラがいて、メルヴィルがいて、ブレッソンがいた。そんな作家たちは今はいない。今日の問題は巨匠がいないことでしょう。アメリカ映画でも偉大な巨匠がもういない。ハワード・ホークスや、ラオール・ウォルシュ、ジョン・フォード……今では、ノーランですから。
藤原:スコセッシはまだいても、81歳ですし。
ファーディル:コッポラもね。映画を撮っていないし。
藤原:いや、撮ってるみたいですよ。
ファーディル:おや、もう出来たのですかね? 撮影が開始できたのかもよく知りません。大変な大作で色々問題がある、と噂は聞きましたが。
藤原:『メガロポリス』ですね。
ファーディル:まあ楽しみにしていましょう。でも偉大な巨匠の時代は終わってしまった。今興味があるのはアジア映画です。韓国映画だとか。あと旧東欧圏の映画ですね、ルーマニアだとか。ラドゥ・ジューデは知ってます? ロカルノ映画祭で受賞したはずです。いい意味でとても現代的な映画作家であり、同時に目を見張らせられる映画文化の継承者でもある。 彼の現代性からして、現代の映画で数少ない見るべき価値がある作家でしょう。だから昨年暮れの『サイト・アンド・サウンド』誌の映画史上ベストテンで、『祖国』を第8位に選んでくれていたのはとても光栄でした。しかも昨年のベストテンに『紫の家』が入っていた。面識はないし、私がよばれた映画祭には来ていなかったので、どこかで海賊版で見たんでしょうね!
藤原:見るべき人に見られて良かったですね。さてそろそろ時間が迫って来たのですが、今後もレバノンで暮らして、レバノンで映画を撮るのですか?
ファーディル:今年にイラクで撮影する予定がありました。ちょっと『祖国』のような、『祖国:イラク20年』みたいなものになったかもしれません。準備中に娘が産まれたので、イラクに行けなくなったのです。人生で初めてなのですが、仕事よりも家族を優先することにして、家に残ったのです。代わりに小説を書いて、来年に出版予定です。
藤原:映画の企画は?
ファーディル:今のところはないですね。次回作は延期したイラクの映画になるのでしょう。
藤原:でも『紫の家』も元は映画の企画として撮り始めたものではないのでしょう。日常を撮っていたら映画になった。
ファーディル:それはそうですね。
藤原:では同じような形で映画が生まれることも?
ファーディル:あり得ますね。それに今は戦争が始まってしまった。これは確実に撮るでしょう。昨日は一日中爆撃が聞こえた、と妻が言っていました。ところが彼女の話だと……映画の中でも時々、強い風が吹くシーンがありますが、今日は風が強すぎて、イスラエル軍の飛行機は爆撃するだけの低空飛行ができなかったらしい! 大自然には勝てない。自然が「やめろ」と命じたわけです。
藤原:神かも知れない!
ファーディル:まあ、それぞれ好きに解釈すればいいことですが。
藤原:とはいえ、まるで聖書的な話ですね。
ファーディル:だって聖書の土地なんですから。
採録・構成:藤原敏史
写真:楠瀬かおり/ビデオ:加藤孝信/2023-10-10
藤原敏史 Fujiwara Toshi
映画作家。山形国際ドキュメンタリー映画祭のスタッフとして関わった際に出会ったロバート・クレーマー、ジョン・ジョストなどの影響で自らも映画作りに。主な監督作品に『ぼくらはもう帰れない』(2006)、『映画は生き物の記録である〜土本典昭の仕事』(2007、YIDFF 2007)、『フェンス 第一部 失楽園 第二部 断絶された地層』(2008、YIDFF 2009)、『無人地帯』(2012)。