我妻和樹 監督インタビュー
僕の中では波伝谷は題材ではなくひとつの大事なものになっています
Q: 私は、監督と歳の近い新太郎さんが、震災後に津波で流されてしまった自宅のあった場所を携帯で撮影しているときの、何とも言えない表情が印象的で胸がつまりました。あのシーンはどのようにして撮られたのですか?
AK: あれは震災の2日後なんです。偶然彼を見かけ、一緒に話しながら歩きました。撮らないでとも言われないし、僕も彼に気持ちを聞くわけでもない、そんなときに撮れたシーンでした。
Q: 映画の中でモノクロとカラーのシーンがありますが、どのような意味があるのですか?
AK: 震災後の時間はあいまいな異空間に放りだされたような時間でした。何年か経って振りかえることができるようになって、ようやく色がついてくるんです。その感覚を表しています。
Q: 波伝谷を震災前から撮影されていたので、震災前と後の両方の映像を観ることができて、興味深く感じました。それは作品の中でどう活かせたと思いますか?
AK: 震災前から描いているからこそ、被災地の人たちが何を取り戻そうとして、何を思い描いて土地に残ろうとしているのかを、より説得力をもって描くことができたと思います。
Q: お獅子様復活の、最初の呼びかけ人の幹生さんが、意見の違いから積極的に関わらなくなってしまったのを見て、私はもどかしさを感じました。監督はどのように感じられていましたか?
AK: 一番共感できるのは、幹生さんの気持ちでした。僕は幹生さんたちをかっこいいと思っていました。支援に頼らずに自分たちでやるんだと聞いて、僕も気持ちとしてはそっちを応援したいと思いました。でも実際は、幹生さんも上手く自分の考えを伝えられなかったんですよね。講長さんたちも部落への思いと、何とかしたい気持ちで、一所懸命動いているわけです。やり方が違うだけで、ふるさとへの愛にあふれているんですよ。幹生さんの思いどおりになれば、それが一番いいとは思っていましたが、どちらの気持ちも思いもわかるので、自分も、とてももどかしかったです。
Q: もともと民俗学を研究されていた監督が、映画を撮ることになったいきさつをうかがえますか?
AK: 小学校5年生のときに、将来は映画監督になりたいと思ってたんです。でも、中学生のときに映画を作った経験が災いし、自分の力量をまざまざと実感して、10年は映画を撮ってはいけないなと思いました。しかし、僕は天邪鬼なので映画学校へ行かず、どうやったら自分の世界観を表現できるだろうかと思っていました。たまたま興味を持ったのが民俗学で、大学での民俗調査で波伝谷と出会ったんです。そのうちに、今この人たちを撮りたいという気持ちが強くなっていきました。それで、大学を卒業してすぐ、撮影を始めました。映画の中には、民俗学的視点が色濃く反映されていると思います。
Q: 最後に「続く」とありましたが、これから撮る対象は決まっているのですか?
AK: 発信する方法は、映画でなくてもいいと思うんですが、記録者としては、地域との関係は続いていくんですよね。僕の中では波伝谷は題材ではなく、ひとつの大事なものになっています。それが続いていくという意味で、ラストは「終わり」ではないなと思いました。そのときに自然にでてきた言葉が「続く」でした。
(構成:楠瀬かおり)
インタビュアー:楠瀬かおり、永山桃
写真撮影:薩佐貴博/ビデオ撮影:沼沢善一郎/2017-10-07