講談師が語る「アラブ」ドキュメンタリーとは
Q: 宝井さんは、大学生時代に山形国際ドキュメンタリー映画祭に、ボランティアとして参加されています。今回講談師として、再び映画祭に参加されることになりましたが……。
TK: まさか、自分が講談師になるとは思ってもいなかったので、このような形でまた、映画祭に関わることになるとは予想もしていませんでした。ドキュメンタリーや、無音ではっきりとした物語がない映像に語りをつけることは、あまりしたことがないですが、できるだけ臨場感がある語りがつけられたら良いな、と思っています。昔は、講談師は「嘘つき」の代名詞と言われていて、「講釈師、ポンと嘘をたたき出す」と言われたり、「講釈師の言う『史実』というのは字が違って『四実』と書く、十のうちに四つしか本当がない」などと枕詞で言われるくらいの、フィクションを語る話術です。その「嘘つき」な講談と、ドキュメンタリーがどう融合するのか、しないのか、闘うのか、闘わないのか、どう史実を脚色して披露していくのかが、勝負どころだと考えています。海外のお客さんにも、日本の伝統芸能である講談独特のリズムである、「調子」を楽しんでいただきたい、とも思っています。
Q: 講談師と活動写真弁士、似ているようにも思えますが、宝井さんが考える両者の違いは何でしょうか?
TK: 活動写真弁士の中には、話芸から出た人もいます。しかし、現在だとまったく違うものに思えます。活動写真弁士は映画という映像の画ありきで語っていくものであり、ひとつひとつのシーンの中に適切な言葉数で、話を収める話術です。普通は、講談に画面はなく、言葉だけでお客さんの想像力をかきたてて楽しませる芸能です。今回の作品のように、映像に言葉をつけることは、あくまで引き立て役であり添え物として考えています。自分の言葉を映像に入れることで、作品をみた観客の抱く印象を限定させてしまうとも考えていて、作品自体の良さを壊さないように、その折り合いをどうつけるか悩みどころです。
Q: 日本ではなく「アラブ」の映画作品に講談をつける難しさはあるのでしょうか?
TK: 私にとって「アラブ」とは、まったく馴染みのない世界です。しかし、たまたま『エルトゥールル号遭難事件』というオスマン帝国の物語を数年前から話しています。同じオスマン帝国にまつわるエピソードだとしても、支配されていた側からの、まったく違う視線からのエピソードなので、同じように語るわけにもいきません。まったく詳しくない分野なので、勉強になります。
Q: 今回のこの講談付き『レバノン1949』の上映をどう観客の皆さんに観てほしいですか?
TK: 講談という話芸は、ライブで楽しんでもらうものだと考えています。その場での一体感が重要で、半分は観客であるお客さんが作るものです。お客さんの反応が語りを変えるものなので、存分に楽しんでいただけたら良いなと思います。
(採録・構成:平井萌菜)
インタビュアー:平井萌菜
写真撮影:野崎敦子/2015-10-06 東京にて