ジョン・ジョスト 監督インタビュー
生み出された現実
Q:『失われた町のかたち』や『ロンドン・スケッチ』(YIDFF '97)を見ると「場」があなたの作品にとって重要な要素であると感じます。
JJ: 私は絶えず旅をし、様々な土地に住んでいます。実際、私は根なし草の人間です。「故郷」がないためにむしろ私は土地それぞれの特殊性に注意深くなったようです。
Q: リスボンはどうですか?
JJ: 私がリスボンを最初に訪れたのは1963年、まだ町に車は走っておらず、まるで1920年にいるかのようで、本当に美しい町でした。当時はきれいなアズレージョがまだ建物の壁に残っていたのですが、今では見る影もなくなってしまいました。法制上都合がいいという理由で、地主はこの装飾タイルの壁が崩れていくのを放っておいたのです。タイル自体には防水性があるのですが、継ぎ目が濡れるとそこから全体が崩れてしまいます。アズレージョの壁は砂や小石と少量のコンクリートで固めた柱で支えられています。ここが湿気で柔らかくなり建物が崩れてしまうのです。アズレージョはただの装飾ではなく、湿度調節機能もあわせもった素晴らしい陶器だったのですが。
Q: 町から何が失われたのでしょうか?
JJ: 生活と、その生活が営まれる建物です。整備され、グローバル化されつつあります。私が住んでいた頃は、小柄な老婆がカブやじゃがいもを穴蔵のような小部屋で売っていました。ところが今ではおそらく「そこは買い取るから今すぐにここから出ていってくれ。そこは私の住むところの景観を乱しているんだ」と言われて、立ち退かされてしまっていることでしょう。とはいえ、再開発がなかったとしても崩れてなくなってしまったでしょうが。
Q: この映像自体は12年前にすでに撮られていましたが、その時点で編集していたらタイトルはただの『町のかたち』になっていたのでしょうか?
JJ: いいえ、そんなことはありません。リスボンは永遠の過去形に生きています。郷愁の文化なのです。ポルトガルは気候のよい快適なところですが、人々は皆悲しんでいます。伝説によれば、彼らが悲しいのはアルフォンソ王がアラブ人を倒すために遠征したまま帰って来なかったためだそうです。ポルトガル人はまだ彼のことを待っているのです。短い間でしたがリスボンはスペインの首都でした。探検家が集い、帝国として繁栄していました。それがみな崩れ去ってしまい、現在は古傷をなめているだけなのです。悲しみやメランコリーに慣れてしまっている。そしてそれを誇りに思っている節もあります。ある意味彼らは自分自身を喪失してしまっている。過去に固執して自身の未来を潰してしまっているのです。
Q: 『失われた町のかたち』ではノイズ付加やシャッタースピードによる露出調整などDVカメラの機能が多用され、リスボンの町が夾雑物のないかたちで映されてはいませんね。
JJ: 私たちは現実を見飽きています。それを普通に撮っても――照明を当てて、きちんと、きれいに撮影されたものであっても――つまらない。だから映像を使って日常をおもしろいものにしなくてはいけないのです。現実はおもしろいもののはずですが、私たちはそれに飽きてしまっている。とすれば、それは更新されなければならない。それがアーティストの仕事なのです。私は『失われた町のかたち』ではあまり大胆なことはしていません。観客の好みよりもザラザラと違和感を感じさせるような画になっているのですが、私はそれが気に入っています。私はカメラが廻るままにさせておいたのです。もっときれいな画を撮ることもできたのですが、それは好きではなかった。それほど野心的ではないとはいえ、おもしろい部分はありますし、長いディゾルブがこっそり挿入されていたりします。
Q: この作品は、同じくポルトガルで撮影された『リア・フォルモサの光のなかで』よりはむしろノイズが少ないと思うのですが。
JJ: 似た方法で構成されたという意味で、都市版『リア・フォルモサの光のなかで』とも言えます。『リア・フォルモサの光のなかで』は96年の夏に、ちょうどDVカメラを新しく買って、撮影するだけなら金をかけなくてもすむようになった頃に撮影されました。フィルム代が高くつくのを心配して35年間もボタンを押すことを怖れていたので、「外に出て撮らなければ」と自分自身を奮い立たせました。そしてその撮影の間に、私はフォーカスの合っていないショットに凝るようになり、カバナスでそのぼかした画がうまくいったので、リスボンでも続けようと決めました。しかし撮影したものを見ると「違う、これはリスボンに適した撮り方ではない」と気づきました。つまり、同じポルトガルの町でもカバナスには適した撮り方で、リスボンではそうではなかったのです。
Q: DVへの移行がそれぞれの映画に重要な影響を与えたのでしょうか?
JJ: フィルムについて考えるときは、時間について考えなければいけませんでした。かつては時間はお金に直結していました。それに10分間しか続けて撮ることができなかったのです。しかし突然DVというただ撮るだけでよいメディアが現れました。カメラを廻して何かおもしろいことが起こるのを忍耐強く待てばよいのです。リスボンについての映画を撮っているなどと考えもせずに撮影したものが、12年もかかって「この素材を1本の映画にしなくては」と思うようになることもあるのです。それが私がDVを好きなもうひとつの理由です。DVのおかげで映画を撮る上での制約を考えなくてもよくなるのです。ワークショップをするときには「これから作る映画について心配するな。お金もまったくかからないのだから、出かけていってただ撮ればよい。そうして撮り方を、ものの見方を学ぶはずだ。その過程でいつしか1本の映画ができあがっているだろう」と教えるでしょう。山形で上映した私の映画『シックス・イージー・ピーセス』(YIDFF 2001)もそのようにして作りました。素材の方から「私たちをつなげて」と訴えてくるなど、かつては考えられないことでした。DVは私の映画制作についての考え方を完全に変えてしまいました。なぜなら、ただ出かけて撮れば、映画があなたのほうへ勝手にやってくるのだから。
(採録・構成:カイル・ヘクト)
インタビュアー:カイル・ヘクト/翻訳:慶野優太郎
写真撮影:鼻和俊/ビデオ撮影:慶野優太郎/2011-09-30 東京にて