アミターブ・チャクラボルティー 監督インタビュー
異端の実相――フォキルを考える
Q: 映画の流れと音楽が連動しているように感じたのですが、それは監督が意図的に演出したのですか。フォキルたちにとって音楽はどのような存在ですか。
AC: 実際の人の動きの流れというより、音楽の物理的な流れに合わせて編集をしています。フォキルたちは自分たちの歌を、知識を伝える媒体として使っています。これまでの歴史を遡って、様々な蓄積されてきた知識を歌という形で、一般の村人たちに伝える手法です。音楽によって、知識を常に生きた知識として継続させるわけです。
Q: 聖者を記念する祭りで、紫色のサリーを着て陽気に踊っていた人は女性ですか。
AC: いいえ、ユーナック(男でも女でもない人々)です。フォキルたちの祭りでは、主流な社会に受け容れられない人たち、すなわち障害者や様々な問題を抱えている人たちが、自分を表現できる場を与えられるので、集まってきます。
Q: フォキルたちの考えは、いずれ主流のイスラム社会に受け容れられると思いますか。
AC: イスラムの主流派というのは、フォキルたちの考え方を一切認めていません。これは一種の政治的な争いでもあります。カースト制度があり、フォキルの人たちはカーストの一番下にいるのに対して、主流のイスラムの人たちはカーストの上のほうにいます。そういう人たちは、やはり組織がしっかりした宗教を信仰したいものです。フォキルとイスラム主流派には、政治的にも階級的にも相容れないところがあります。
また、フォキルたちの基本的な教えとして、すべてが性的なエネルギーから発信するという考え方があります。よく言われている性欲を統制することと違い、フォキルたちの場合は性的欲求ないしエネルギーを内面に持ちこもうとします。実際に人間の性的営みでは、男性が外に出し、女性がそれを受け入れることになります。つまり本来性的エネルギーを自分の中に取り込めるのは女性しかいません。だから女性が不可欠になってきます。そういう意味での男女の平等性は、フォキルの社会によく表れています。それはとても近代的でもあります。しかし、相当進歩的な考えを持つ人でないと、それを受け入れて実践するのが難しいのです。因習や過去を引きずっているような社会では、なかなかそういう考え方を受け容れられないのは至極当たり前ではないかと思います。
Q: 次回作『Cosmic Sex--A Dialogue with Gandhi』について聞かせてください。
AC: 今回の映画の最後に出てくる男女のキスのシーンが、次回作のスターティングポイントになります。さらに性的エネルギーというものに焦点を当てます。性的エネルギーをいかにコントロールできるかという問題は、イスラムのテーマでもあるし、ヒンドゥーのテーマでもあります。ガンディーはそれを究極の禁欲に昇華した人であって、性的関係を一切持たない人でした。こういう人をインドで「ブラフマチャリア」と呼んでいます。ガンディーは人々を助けるという行為を通じて、その性的エネルギーから「ブラフマチャリア」、そして最終的に非暴力という境地まで辿り着きました。それに対してフォキルたちは性的な関係、営みを通じて、性的なエネルギーをコントロールできるようになっています。ガンディーが言っている一切性的関係を持たない、結局女性を近寄らせないことは、一種の女性蔑視でもあると思われます。従ってその対比を次回の映画でやってみようと思います。
(採録・構成:華春)
インタビュアー:華春、西岡弘子/通訳:川口陽子
写真撮影:楠瀬かおり/ビデオ撮影:楠瀬かおり/2007-10-06