藤原敏史 監督インタビュー
カメラの眼、生きものの記録
Q: 過去と現在の隔たりが繰り返し描かれます、なぜそうなったのですか?
FT: 撮り始めてわかったのは、土本さんが水俣についての代表作を撮られた70年代と現在とのギャップです。30年以上も年月が流れ、様子はまったく変わりました。今、水俣湾は汚染された海ではなく、日本で一番綺麗な海のひとつです。また、土本さん自身も30年前と今とではやっぱり違います。どういう映画にしようか考えた時、土本典昭という映画監督を褒め称えるものを作ればいいかというと、映画はそんな簡単なものじゃない。カメラは残酷なもので、土本さんの顔を写す以上、そこに写るのは過去の話をする“現代”の土本さんであって、そこにいろんな意味が映画として写ってしまう。カメラの本質は何かというところで映画を作ったら、単に土本典昭を礼讃する映画にはならない。今生きている土本典昭を写す、でもそこで話題になるのは過去であるという、そのギャップは避けることが出来なかったんです。
Q: 患者さんを撮影する時に、何を感じましたか。
FT: 患者さんの立場に我々は決して立てない、そのことを土本さんは理解していて、それをどう受けとめるかということからスタートされていますが、同じ状況に自分も放り込まれてしまったわけです。たまたま僕は土本さんが案内してくれて撮れたんですが、最初に土本さんが水俣へ行った時は大変で、すごく苦しんだでしょう。その時患者のお母さんに罵倒されているんです。「撮ってもこの子の病気はちっともようならん」と。ドキュメンタリーを作るって、罪深い行為だと思うんです。どうやっても傷つけてしまう、だからやらないというのではなく、大きな過ちを犯してでも何か意味あることをやるということだと思います。一方で水俣の人たちは土本さんの映画が好きなんです。それはすごく大事なことで、作られたものではない自分たちの姿がちゃんと写っているからだと思います。彼の映画は、表面的に見ると運動の映画に見えてしまう。でも、それ以外のところがおもしろいんです。『不知火海』が彼の最高の作品のひとつなのは、実は水俣病の映画ですらないからです。人が生きていくこと、それはどういうことなのかについての映画であって、そういう意味で見てもらえるといいなと思います。
Q: 映画をご両親と日本の戦後を生きた人々へ捧げられていますね。
FT: 土本さんも自分の親父も、戦後焼け跡派のある種の典型として、根がとても真面目なんです。その真面目さが日本の戦後で、どう壁にぶつかってきたかに興味があったし、映画を完成させる最中に親父が倒れた、それが無自覚でしたが影響しています。今、制作から1年以上経って見てみると、ある意味で土本さんを自分の親父と重ねて見ているところもあるし、よく似ていると思うんです。こう言うと失礼になってしまうけれど、やっぱり年は取っていかれるし、足元もだんだんあやうくなっていく。それも含めて人が老けていくという当たり前の作業を、どう周りの人間が受けとめられるか、それについては映画で言えたと思います。劇場公開した時、土本さんが水俣の埋立て地をてくてく歩いてるシーンを、自分の母親世代くらいの女性がすごく喜んで見てくれた。あの歩き方が『東京物語』の、熱海で老夫婦が防波堤の上を歩くシーンを思い出させると。だから山形では、ぜひ両親の世代の人たちに見てほしいですね。
(採録・構成:久保田桂子)
インタビュアー:久保田桂子、高田あゆみ
写真撮影:高田あゆみ/ビデオ撮影:高田あゆみ/2007-09-25 東京にて