王兵(ワン・ビン) 監督インタビュー
出来事の映画でも、物語の映画でもない
鳳鳴(フォンミン)というひとりの人間の映画を作る
Q: 多くの人と会われた中で、なぜ鳳鳴(フォンミン)さんを選んだのですか。
WB: 特に彼女と親しかったからです。彼女を非常に尊敬する理由は、同じような経験を持つ人は何十万人といますが、数十年後の今日に、なおその経験に直面する勇気を持ち、さらに、それを人へ伝えようとする人は少数だからです。『鉄西区』を作っている時は、自分が芸術家、知識人として先鋭的なことをやっている、という自負がありました。しかし彼女と出会い、彼女のやっていることのスケールと、彼女の人生の見方、物事を考える深さと広さに対し、自分はとても小さいと感じました。将来、90年代から今日に至る歴史を顧みる時、この国の文化に対し、真なる意味で貢献した人は、知識人ではなく、彼女のような人たちだと理解されるでしょう。1949年から今に至るまでの数十年間は、中国の歴史の中で前例の無い時期です。彼女たちが自分たちの経験を人々に伝えることで、私たちは過去の歴史に対し、よりリアルで客観的な印象を得ることができます。また、当時の人々がどのように生活していたか知ることができるのです。
Q: ほとんどの時間、語っている彼女にカメラを向けている。こうしたスタイルをとったのはなぜですか。
WB: 映画を複雑に作ってしまうと、そうすることで映画が鳳鳴という人間からどんどん離れて、違うものに関する映画になってしまうからです。彼女の映画ではない、“事件”に関する映画、もしくは“物語”に関する映画になってしまう。私が彼女の物語へ入ろうとしなかった理由は、私は彼女の人生の目撃証人ではないし、なりたくもない。なぜかというと、私は実際に彼女の生活を目撃していないし、証人になる資格もないからです。彼女だけが、彼女自身の生活の目撃証人となり得る。彼女が自分の人生について語り続ける、自分はそれを記録すれば十分だと。だから、わざと写真などを入れて、事件の真実を証明するかのようなことは、必要ないと思いました。後世の人々がその時代を知る手段はいくつかあります。文学、写真、映画、そして、資料としての文献もそうです。文献は単に事実の信憑性を追求するためのものです。それよりも、彼女のような人々が過去の経験をどう感じ、そこから何を考えるか、それこそが本当の真実ではないか。彼らの感受性や考え方が、彼らの経験した過去の時代との“掛け橋”となり得る、そう考えています。彼らの心を知ることが、その時代を知ることになる。だから歴史を知るのに、文献よりも、一人ひとりの考えのほうが大事だと思います。
Q: 私は暗くなっていく部屋に、彼女の人生の移ろいを重ねました。このシーンの意図は?
WB: 部屋で彼女と座って話をしていると、ふたりの人間が語っているというよりも、まるでふたつの魂が会話しているように感じます。日が暮れて、部屋がとても暗くなり、彼女の顔がよく見えなくなってしまっても、閉ざされた安全な空間で語り合う、この静けさがあまりにも美しいから、どうしても電気をつけたり、カメラを操作して、部屋を明るく見せることはしたくなかった。大きなスクリーンで見ていただけると、この暗闇が醸し出す静けさの魅力を、おそらく感じていただけるだろうと思います。
(採録・構成:久保田桂子)
インタビュアー:久保田桂子、華春、佐藤寛朗/通訳:華春
写真撮影:佐藤寛朗/ビデオ撮影:佐藤寛朗/2007-10-05