蓮實重彦 氏 インタビュー
山形は冒険可能な場所
Q: 今年の、インターナショナル・コンペティションの傾向は、どのようなものだったのでしょうか。
HS: フィルムの作品が非常に少なく、ほとんどの作品がビデオで撮影されたものだったという特徴は見て取れると思います。これはある意味では、非常に人々が映画に近づきやすくなった、といういい面を持っているのですが、もう一方で、撮ることに対する畏れが、若干低下しているような気がいたします。何でも撮れてしまうということに安心して、方法意識というものが作家の側からやや希薄になっていたのかなと。ある意味で、誰もが映画を撮れるという状況が一般化したことによって、逆に多様性よりも画一化が進みつつあるのではないかという点を、若干危惧いたしました。テレビ的な画一化といっていいかもしれません。それは今回だけの問題ではなく、21世紀以降の映画における一般的な傾向だと感じました。しかしその中に、王兵(ワン・ビン)監督のようにビデオで撮っているのだけれども、まさに映画的な空間、映画的な時間というものを、自分なりに作りあげようとする強い意志と自覚を持って撮っている人もいないわけではありません。
Q: 審査の対象も、そういう点を留意なさったのですか。
HS: 審査の基準というものは設けませんでした。それぞれの賞の審査にあたって、審査員それぞれの意見を聞き、臨機応変に対応いたしました。あらゆる映画祭で諤々な話になりますが、決して、ひとつの意見にまとまるということはありません。今回の映画祭でもそうでした。ただ、最終的な結論に達するのに、通常の倍以上の時間がかかったということ、それは事によると、多くのものが若干撮り方によって似てしまい、多様性が減っていたことの結果なのかもしれないと危惧しております。
Q: ドキュメンタリー映画の新しい可能性というものを、どのようにお考えですか。
HS: これは大きな需要があると思います。ますますドキュメンタリーは大きな意味を持ってくると思うのですが、ビデオが非常に安易になってしまったので、誰でもビデオを廻せると思ってしまった瞬間に、一方で画一化が始まってしまうといった大きな矛盾、誰もが撮れるならば、無限の多様性がそこに出てこなければ、おかしいわけだけれども、実は観てみると、結構皆同じように撮っているという画一化が生まれてきてしまうということがあるので、それを避けるにはどうするかという時に、やはりその監督が世界に向けている視線が非常に大きな意味を持ってくるのだと思います。
Q: 今回、家族や自分の身近な人物をテーマにした作品が、非常に多かったように感じたのですが。
HS: そのことで、大変議論になったのですが、そこから我々が受け取れる家族というものは、すべて違った家族であるということが重要だと思うのです。家族という一括りにしたものが、これほど異なる表情をみせるところにやはり驚くべきであって、『垂乳女』の河瀬監督の家族と、『旅 ― ポトシへ』の家族とはまったく違うわけです。ですから、そこに多様性が無限にあるということがわかれば、家族が主題になっても私は構わないと思います。ただし、ビデオカメラを持った時に、つい撮ってしまうのが家族であるという安易さは、皆自覚しておくべきだと思います。前回の『チーズとうじ虫』というのが、家族の話なのですが、どうして他人ではなく家族なのかということを十分に考えたうえで、なおかつ自分は家族にカメラを向けるというものと、たまたま近くにいたのが家族だったというのではずいぶん違うと思うので、これは事によると、ビデオが普及してしまったことによる安易性のきっかけになると十分に考えられます。私は、映画は原則として他者に視線を向けるものだと思っています。これからは、家族を他者として扱うかどうかが鍵になってくるものだと思います。安易な視線が蔓延しつつあるが、優れた映画作家はそれを否定することができると考えております。
Q: 審査員長にとってドキュメンタリーとはどのようなものですか。
HS: ドキュメンタリー映画というものの定義は誰も知らないのです。そして、歴史的に定義されたわけでもない。映画が生まれた時はフィクションであり、また同時にドキュメンタリーであった。ドキュメンタリーとフィクションの間は、映画が誕生した瞬間から今日までやはり非常にあやふやなものだったわけです。ある時期まではある種の対象はドキュメンタリーで処理し、ある種の対象はフィクションで処理するということが非常に簡単にできたと思います。今はフィクションの監督も、たとえば審査員のひとりであるペドロ・コスタ監督もフィクションを撮っていながらも、ドキュメンタリー的な傾向が非常に強いということがあります。ドキュメンタリー的な傾向が非常に強い小川紳介監督の作品にも、フィクション的な要素はたくさんあります。本当に重要なことは、対象を通して我々が世界を視る視線をどのように鍛えるかということにあります。しばしば、見せることにしか興味のないものがあります。そういう作品は、撮る人が世界をどのように視るかということがまったく表れていないのです。撮る人の世界に向ける眼差しが、我々にひしひしと伝わってくれば、いわゆる大きな枠組みとしてドキュメンタリーであれ、フィクションであれ、私は同じインパクトを持っているものだと思います。
Q: これまで観客として、この映画祭に毎回いらしていたそうですが、山形国際ドキュメンタリー映画祭のこれからの歩みについて、お考えになることはありますか。
HS: 現在、映画祭全体というのも、世界的にほとんど機能してないです。ペドロ・コスタ監督が審査員の言葉のなかで書いていましたけれども、ちょっと小さくてもこれはいいなと思った映画祭も、みんな凡庸なものになっていくということもありますので、いかにして、山形が凡庸化に抵抗していくか。凡庸化にも2種類あります。人がたくさん来ればいいという形で成立する凡庸化と、こんな撮り方しとけばいいんじゃないかという凡庸化とがあります。それでは冒険が少なくなってきます。私はできれば、王兵監督の『鉄西区』という途方もない冒険があったように、山形には最後まで冒険が可能な場であってほしいと思います。今年はどちらかというと、20代から30代前半の若い監督の作品が少なかったように思います。それはある種の安定化に向かっているのかもしれませんけれども、やはりその世代に優れた作品がないと、必ずその国は、あるいはそのコミュニティは悪しき方向に行きがちなので、どうか次回は20代30代の活きのいい人たちの真剣勝負を見せてもらいたいなと思っています。
(採録・構成:西岡弘子)
インタビュアー:西岡弘子、高田あゆみ
写真撮影:橋本健一/ビデオ撮影:峰尾和則/2007-10-11