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YIDFF 2005 私映画から見えるもの スイスと日本の一人称ドキュメンタリー
ははのははもまたそのははもその娘も
瀬戸口未来 監督インタビュー

揺らがないと思える世界への挑戦状


Q: この作品の大きなテーマである「母」について教えてください。

SM: 私自身の、母に対する脅迫観念から逃げたかった、というのが強くありますね。しぼむように醜く死んでいってしまった母と同じように、自分も醜くなってしまうかも、という恐怖がある。作中に「お母さんみたいなお母さんになるもん」と言うセリフがありますが、それが私のすべての代弁で、母親になってもおかしくない今の年頃でも、結婚に対して否定的な面や、母親になることへの恐れがある。自分自身の人生を踏まえるうえでも、一度、作品で母と対峙しなければならないと考えました。

 母親のいない状態では、母というイメージが掴みづらくて、同年代の女の子に話を聞いたりして、皆のお母さんのパーツを借りて、大きな母を作ろうとしました。断片をパッチワークのように繋いですべてを描こうとすると、何もかも矛盾してバラバラになってしまう危険性があったので、神であり、悪魔であるという、相反する母親像の象徴として、鬼子母神という入れ物を用意してやることにしました。

Q: 音から作品を作ると聞いたのですが、具体的には、どのように作るのですか?

SM: 私、いつでも最初から最後まで迷っているから断片になってしまう、っていうのがある。もやもやを形にしようと思ったら、私にはまず言葉があって、ノートのメモ書きやナレーションが素材になる。逆に画からは作れないんですよ。まず音を作って、最初から最後まで聞いて、そこから湧きあがる感情や考える部分を画として作る。

 画はイメージ。隠喩ではなくて、なんとはなしに頭の中に浮かんできたものを、思いつく限りどんどん撮っていく。自分でもすごくスリリングな作り方だと思います。不思議なことに、テーマについて四六時中考えている時に浮かんだ光景は、使えることが多い。私にとって、カメラで撮るという行為は、目の前で見たい光景を再現させて、手で触れる所でそれを記録することへの高揚がありますね。ヌルヌルというか、手を伸ばせば触れられるという欲望を、カメラに収める快感があるのかも。

Q: 映像からは、死とか壊れゆくもののイメージを強く受けるのですが。

SM: 自分では特に意識しているつもりは無かったんですけど、人からよく言われますね。多分、作りながら壊したいという衝動があるのかな。作中、帰る場所が欲しくて、実際の場所をイメージとして入れたけど、それは不在の場所を描くためだったりね。目の前にある本当のことを撮ろうと思っても、私にとってそれは光景でしかなくて、3秒後には二転三転してしまうから。いつも壊したい衝動と闘いながら作っていますよ。

Q: シンポジウムでは「この映画を作っても、ちっとも癒されていない」とおっしゃっていましたが、監督にとって作品を作ることの意味とは何ですか?

SM: 自分自身を整理するという部分と、ひとつの物事を言い切る人に対して、異議申し立てをする部分がありますね。映像にした段階で疑うことを知らなくなる人たちに、お前らの思っていることってどうやねん!っていうね。

 私の作品は、私が見ているものの奥に見えるものを人に提示するために、画であり音でありを探り出して見せるのだけど、「私の感じる本当」を描こうとすればするほど、現実離れしてしまうところがある。絶対的なものは無い、という地点から始めているのに、「無いのかな?」と思ってしまう所に、今の私の虚無感がある。私が今、唯一自信を持って言えることは、「自信の無い自分に自信がある」ということだけですね。

(採録・構成:佐藤寛朗)

インタビュアー:佐藤寛朗、猪谷美夏
写真撮影:大谷紫津/ビデオ撮影:大木千恵子/ 2005-10-13