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YIDFF 2005 アジア千波万波
記憶の足音
レイン・ミトリ 監督インタビュー

あるひとつの時代の終わり


Q: 監督にとって、モッカ・カフェはどんな存在でしたか?

RM: このカフェというのは、ベイルートの人々にとって、政治的にも文化的にも、非常に重要な意味を持っていたんです。芸術家のような人たちが、30年という歴史の中で、まるで、ふたつ目の家のようにして集まっていました。私にとっても、このカフェというのは、情緒的にも文化的にも、大きな意味を持った場所でした。ですから、壊されると聞いたときは、無論悲しかったですし、辛かったですね。このカフェが閉店してから2年になるんですが、その後、あの場所は、本当にただの商業地域になってしまいました。このカフェが終わったっていうのは、あるひとつの時代の終わりを意味していると思います。人々がその街に集まって楽しむ、そういうひとつの時代の終わりですね。

Q: 熱狂的な民衆と、監督のカメラの冷静な眼差しにギャップを感じたのですが、冷静に撮るために、気持ちの切り替えはどうしていたのですか?

RM: 正直に話すと、気持ちのコントロールはできませんでした。私、実はあのデモの中に入って一緒になって叫んでいたんです。そこから自分を遠ざけて撮影するということも、可能だったかもしれないのですが、実際、私にそれはできなかった。感情を表に出すことを止められませんでした。ただ、最終的に、自分と被写体の間にカメラが入ることによって、ある種の距離が保てたのではないかと思いますね。

Q: 民衆の活動に対して、批判的な見解をお持ちだったようですが、具体的にどんな風に彼らの行動を見ていましたか?

RM: 確かに、私も最初デモに入っていたわけなのですが、ある時気づいたのは、そういう活動家たちというのは、運動を始めたことに自己満足を感じているだけで、事態は何も変わらないということです。それはけっして何の利益ももたらさないし、かえって害をもたらすと思ったので、ある時期から、私は、そういう運動に対して批判的になりました。ただ、私は、デモ活動が悪いとはけっして思わないし、それ自体はあるべきだと思います。でも、私がいつも辛く思うのは、デモに継続性が無いということです。一時期はそれに熱中するけれど、ある日突然飽きてしまい、日常生活に戻ってしまう。そういうことに対して、悲しみや、批判的な感情を持っています。

Q: 監督にとって、カメラはどんな役割を果たしていますか?

RM: ある時間を思い出として記憶するというのが、私にとって最大の意味です。主題や対象物によって、カメラというのはいろんな意味があると思うので、一概には言えないんですが、たとえば、このカフェのことで言えば、最初は思い出を残すという意味で撮ったんですね。ですから、私にとって、カメラとは、大事な瞬間を、思い出のために残すものです。私の場合、自分の撮っているものを、「ドキュメンタリー・エッセイ」と呼んでいます。ドキュメンタリーというと、客観的に見ることが必要だと言われますが、それはとても難しいし、一旦自分の中を通りますから、どうしても主観的になってきます。だからそう呼ぶのですが、なぜ私がドキュメンタリー・エッセイを撮るかというと、自分の言いたいことがあるから、また、その意見を誰かと分かち合いたいからです。そして、もうひとつは、この時間とか、場所とか、その瞬間をタイムカプセルのように残すためなんです。

(採録・構成:橋本優子)

インタビュアー:橋本優子、西谷真梨子/通訳:斉藤新子
写真撮影:佐藤朱理/ビデオ撮影:大木千恵子/ 2005-10-12