キム・ドンウォン インタビュー
「アジア的な価値」を重視したい
Q: まず、審査をされたご感想をお聞かせ下さい。
KD: 今回の「アジア千波万波」は、作品の傾向が本当にバラエティに富んでいて、評価すること自体不可能かと思えたのですが、その不可能なことをしなくてはいけない大変さがありました。
例えば、このプログラムは名前が「New Asian Currents(「アジア千波万波」の英題)」ですよね。「New」、「Asian」、「Currents(流動・潮流)」のどの部分に重点を置くかによって、色々な可能性があったと思いますが、私が個人的に重視したのは、「アジア的な価値」です。世界的な普遍性があって、どこの国でも受け入れられるような価値を持った作品も、もちろん大事です。でも、私が強調したいのは、ちょっと抽象的になりますが、社会批判的なもの、あるいは何かに抵抗していくような作品に、アジア的な価値を見出せると思うんです。「世界秩序」がひとつあったとしたら、それをそのまま受け入れるのではなくて「抵抗」してみる、そういう気持ちのあるものが「アジア的な価値」のある作品だと捉えています。
私の考えですが、作品を撮る時の視点や考え方と、審査の時の視点・考えは、基本的には大部分同じだと思うんです。ですが不思議なもので、自分はこうだと思って審査に臨むんですが、他の審査員と色々な協議をしていく内に、葛藤があったり、考えが変わったりして、蓋を開けてみたら最初の考えと違った、意外な結果になることもまたあり得るんじゃないかと思います。自分なりの基準を持って審査に臨んだつもりだったのですが、それだけで評価するのも難しいことでしたね。
Q: 監督は'91年と'99年の山形映画祭にも参加されていますが、ここ12年間のアジアドキュメンタリーの変遷についてお考えをお聞かせ下さい。
KD: 残念ながら、毎回は山形映画祭を訪れることは出来なかったのですが、今回、様々な作品を見せて頂いた結果、ドキュメンタリーにも新しい傾向が、どんどん生まれてきている気がします。'91年当時は、ただ単に事実とか、起こっていることを記録することに留まっていました。でも最近は、作家が対象とどのように向き合ったら良いのか、あるいは作品を観客にどう見せたら良いのか、ただ記録することを超えて、そちらにまで目を向けて、深く考えるようになっているような気がするんです。
もうひとつ、個人的で主観性の強い作品が、非常に増えていると思います。特に日本の作品についてなんですが、アクティビスト的な精神を持って、ドキュメンタリーを作る作家がちょっと減っていて、それはこの10年間で顕著に表れている変化だと思います。例えば『GO! GO! fanta-G』(清水浩之監督、2001)などは非常に奇抜で、ある意味悪戯っぽい表現が特徴だったと思いますが、この作品に象徴されるような傾向の作品が増えていますね。こうした変化は別に悪いわけではなく、私は肯定的に見ていますが、その半面、ちょっとパンチが弱くなったかな、という感じがしますね。
DVカメラとノンリニア編集システムの普及が、そうした傾向に影響を与えていますね。現代はすべてがデジタル化されているような時代ですので、そうした環境では個人的・主観的な内容の作品が増えてくるのは当然ではないかなと思います。そしてまた昔は「在るもの」「存在しているもの」だけを撮っていましたが、今は存在しない、目に見えないものまで表現できるようになったんです。コンピュータでいじれば色々と出来ますからね。そういう時代だからこそ若い作家の想像力が発揮された作品が出来ているのではないかなと思います。ハードウェアの変化が、作品の内容や対象へのアプローチの仕方まで変えて、引いては「ドキュメンタリーとは何か?」というコンセプトまで変えつつある気がしますね。
Q: 「アジア千波万波」の賞は「小川紳介賞」と名付けられていますが、審査の際にそのことを意識しましたか?
KD: 直接はしませんでしたが、自分でも私の作品は小川監督の作品と傾向が似ていると思いますし、小川監督を尊敬しておりますので、なるべくその名前に相応しいものを選ぼう、という気持ちはありました。ただひとつ残念だと思ったのが、山形映画祭は小川監督と縁のある映画祭ですよね。私は小川紳介的な精神をもっと強化しても良いような気がするんです。そういう良い伝統が、ちょっとだけ弱くなっているかなと思ったので、敢えてひとつだけ言わせて貰えれば、小川紳介的なマインドを活かして欲しいということですね。
(採録・構成:加藤孝信)
インタビュアー:加藤孝信、桝谷頌子/通訳:根本理恵
写真撮影:園部真実子、松永義行/ビデオ撮影:園部真実子/2003-10-16