亀井文夫特集
日本のドキュメンタリー映画の歴史の上で、亀井文夫の存在を忘れるわけにはいかない。文献をもとにその人生のあらましを辿ると、以下のようになる。亀井は、1908年生まれで、カトリック信者だった両親に育てられ、東京の文化学院美術科に進み社会科学への関心を高めた。ソビエト美術を勉強するためモスクワを目指し、まずウラジオストックに上陸、そこで見た映画に衝撃を受け、興味は美術から映画へ一転した。折りしも、モスクワではエイゼンシュテインやヴェルトフの活躍目覚ましく、亀井はレニングラード映画技術専門学校の聴講生となり、ユトケヴィッチ、エルムレル、コーズィンツェフなどに学んだ。その内、恋に落ち子どもができるが肺結核となり、母が建てたサナトリウムに入るため帰国。健康を取り戻し、再び妻子の待つソビエトに戻ろうとするが厳しい社会情勢の折り実現しなかった。写真化学研究所(P.C.L.)が人を募集していると知り応募、採用されその頭角を現すようになった。写真化学研究所は、のちに東宝となり、亀井はその文化映画部で『怒涛を蹴って』(1937)、『上海』(1938)、『戦ふ兵隊』(1939)、『小林一茶』(1941)など、数々の名作を残すことになる。中でも『戦ふ兵隊』は、当時流行った戦意昂揚の雰囲気は無く、ただ戦場で見たものを淡々と描写したものであった。作品は上映されることなくお蔵入り。後に亀井は治安維持法により検挙され1年間拘束される。戦後は、いち早く天皇の戦争責任を追及した『日本の悲劇』(1946)を作るが、これも占領軍の上映許可が下りず没収。リベラリストの多かった東宝で起こった労働争議でリーダー的存在だった亀井は、その過程で企画された劇映画『戦争と平和』(1947)を山本薩夫と共に監督。次の劇映画『女の一生』(1949)ののち、フリーとなり東横(後の東映)で時代劇『無頼漢長兵衛』(1949)、独立プロのキヌタプロダクションで女性の生き方を描いた『母なれば女なれば』(1952)、『女ひとり大地を行く』(1953)を監督。再びドキュメンタリーに戻り、米軍基地問題を扱った『基地の子たち』(1953)に始まり、自分のプロダクション「日本ドキュメント・フィルム社」を起こし、原水爆禁止を訴える『生きていてよかった』(1956)、米軍基地反対闘争を描いた『流血の記録・砂川』(1956)、原子力の恐ろしさを科学的に実証した『世界は恐怖する』(1957)、部落問題を真正面から捉えた『人間みな兄弟』(1960)など、多くの話題作を世に問うてきた。しかし、自分が信じてきた共産党下のソ連と中国が対立、原水爆禁止運動から社会党系が離脱し、運動が二分するなどの事態になって、亀井はドキュメンタリー映画作りから身を引いた。その後、趣味を生かした骨董の店「ギャラリー東洋人」を開店。それと併行して、亀井のもとには産業PR映画の依頼も多く、時には自分で、時には若い監督を立て、さまざまなPR映画を作り出した。晩年は、エコロジーに関心を抱き、友人のカメラマン菊地周の依頼で再構成した『みんな生きなければならない―ヒト・トリ・ムシ“農事民俗館”』(1984)を、続いて各社提供のフィルム・フッテージを利用した『生物みなトモダチ〈教育編〉―トリ・ムシ・サカナの子守歌』(1987)を完成、この作品がいわば遺言となった。亀井の一生は、まさに映画人生そのものだったと言える。
小川紳介監督からは『世界は恐怖する』や『流血の記録・砂川』を評価した発言を直接聞いた経験があるし、土本典昭監督は亀井を「今も確乎として私の師なのである」と追悼文で言い切っている。そう云えば、『流血の記録・砂川』からは、小川の「三里塚」シリーズ(1968-73)への影響を感じない訳にいかないし、『世界は恐怖する』は、土本の『医学としての水俣病』三部作(1974-75)を思い起こさせる。私自身、亀井が活躍した時期から遅れてきた世代なので、同時代的に作品に接するチャンスがなかった。残念でならない。今、見直してみると、土本、小川らが一目置くだけあって、腰の据わった力量ある映画作家であると痛感する。
亀井に関する主な文献は、岩波新書から出た『たたかう映画―ドキュメンタリストの昭和史』(1989、谷川義雄構成・編集)と、講談社から出た『鳥になった人間―反骨の映画監督・亀井文夫の生涯』(1992、都築政昭著)の2冊ある。また、亀井は白水社から出た『ソヴェト映画史』(1952、土方敬太共著)の著者でもある。他にも各種文献に亀井は多くの有意義な言葉を残している。この機会に、併せて読まれることをお薦めしたい。
ところで、今回の特集上映は、亀井の歩んだ映画人生のすべてをスクリーンから振り返ろうと試みることから始まった。しかし『伊那節』や『無頼漢長兵衛』など、いくつかの重要な作品は、フィルムが残っていないので断念せざるを得なかった。上映フィルムは、東宝文化映画部を引き継ぐ日本映画新社や、亀井自身のプロダクションだった日本ドキュメント・フィルムのご厚意で、また会社にもフィルムがない貴重な作品は東京国立近代美術館フィルムセンターから、そして今回は特にNHKの協力を得て戦前に亀井が日本放送協会のために作ったと思われる2作品を借用した。PR映画については電通テック(旧・電通映画社)や各スポンサーのご厚意にあずかった。また、亀井文夫特集のカタログ作成にあたって、日本ドキュメント・フィルム社主の阿部隆氏、日本映画史研究家の牧野守氏にご尽力をいただくなど、多くの方々にご協力をいただいた。ここに改めて謝意を表したい。
亀井文夫特集コーディネーター 安井喜雄
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