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YIDFF 2023 アジア千波万波

壊された囁き
アミール・アーサール・ソヘイリー 監督インタビュー

聞き手:石川泰地

音楽がたちあがる時

石川泰地(以下、石川):この映画の中心人物である絵描きのミラードさんとの出会いについてお聞かせください。

アミール・アーサール・ソヘイリー(以下、アーサール):映画を作るためにシリアの街に入り、出会い、友人となったさまざまな人たちのうちのひとりがミラードでした。絵を描くことができなくなったこと、壊れた楽器を直していること、といった彼の話を聞くうちにとても面白いと思い、彼を映画の中心人物に決めました。昨日と今日の上映の様子も彼に伝えました。反対に、イランで何か事件が起こったときなどはすぐに彼から状況を心配する連絡が来ます。そのように、私と彼とは非常に親しい友人関係になっています。

石川:ミラードさんは瓦礫の中から壊れた楽器を見つけてきて修理をしています。実際にシリアの街では瓦礫の中から壊れた楽器が見つかるといったことはよくあるのでしょうか。

アーサール:この映画を撮影した時には既に戦争からかなり時間が経っていたのであまりなかったのですが、かつては山のように楽器が積み上がっているようなところがありました。ピアノやサクソフォン、ギターやバイオリンなど様々な楽器が。写真も残っています。この映画のために掘り出された楽器はウードとハープのふたつだけでしたが、撮影以前に彼はたくさんの楽器を見つけ出しています。映画の中で演奏されている楽器のほとんどは彼が見つけて直したものです。ウードに関しては、彼はこれまでに4つも直しています。また彼は私に、彼が修理してラクダの絵を描いた、ダフという打楽器をプレゼントしてくれました。

石川:映画の中でミラードさんは、バアルという神様の物語を語ります。この物語はシリアの方々にとって身近なものなのでしょうか。

アーサール:今でもバアルが信じられているということはありません。しかしはっきりとしたことではありませんが、専門家によるとバアルは世界で人々に愛された最初の神様なんだそうです。また似たような伝説が世界各地、エジプトやメキシコ、古代ギリシャにもありますから、自然を司る神の存在という点において、世界中の多くの人々に通ずる感覚がある物語なのではないかと思います。

石川:音響担当の方と話し合って、音がだんだん増えていくように設計をされたというお話を聞きました。また白黒で始まった映画がだんだんと色づいていく演出も特徴的です。

アーサール:映画全体を通して見た人の心に、最終的にどんな感覚が残るかということを大事にしました。私達はあらゆる部署のスタッフと長い期間をかけて何度も何度も話し合い、認識を一致させることができたと考えた時に撮影を始めました。ミラードの絵画教室はとてもカラフルで、カメラマンはそこに初めて足を踏み入れた時、その豊かな色彩に感銘を受けていましたが、しかし私はまず初めは白黒で撮るべきだと言いました。そこから観客のフィーリングに合わせて色を足していくべきだと。この映画は監督した我々だけで作ったのではありません。スタッフ全員で作ったのです。絵描きの女性が歌っているシーンを撮る時には、車中では皆でその歌を聞いていました。例えばそのようにして、全員の認識を一致させていったのです。

石川:劇伴音楽の制作過程をお聞かせください。

アーサール:既成曲が3曲使われている以外は、全て音響デザイナーが作ったオリジナルの楽曲です。私には彼のアイデアが特に素晴らしいと思うシーンがふたつあります。まずはオープニングです。私は初め、鳥の声とバイクの音だけでいいと言いました。しかし彼がそこに1曲入れさせてくれと言ったんです。私は昨日の上映の後、改めてそのシーンを見て、やはり音楽が素晴らしいと思ったと、彼に連絡をしました。もうひとつは、回想を表すために音楽を使ったシーンです。ミラードの映像から、彼のフラッシュバックの映像に突然切り替わり、また彼の映像に戻る。その間、同じ音楽が流れていることによって回想であることが分かりやすくなっています。これも彼のアイデアで、とても良いと思いました。彼はいつも音符を書いて見せてくれるんです。良い共同作業でした。

映画と芸術の力

石川:戦争を映像で記録することの重要性を訴える男性が登場します。しかし映像記録と、映画制作とはまた似て非なるものではないかと考えます。監督にとって映画を作ることとはどのような意味を持つのでしょうか。

アーサール:私はこの2日間、この映画を改めて見て、「普通の人々がすごいことを言っている」と思ったんです。カール・マルクスが「歴史は繰り返す」と言いました。その繰り返しから我々は学ばなければならない、と。それとほとんど同じことを、小さな街で暮らす普通の人が言っている。映画のなかで、オーケストラの指揮者もしていた元音楽教師のミラードは「芸術が分かる人は、殺人者にならない、子どもを殺さない」と言っています。彼はアリストテレスが言っていたことと同じことを言っていると思います。私は、芸術には「商業的なエンターテインメントとしてのもの」と、「本当のことを見せる芸術」の2種類があると思っていますが……つまりミラードが言っていたのは、芸術が分かる人がもっと増えれば、世界はもっと素晴らしい場所になるのではないか、ということ。私は彼からその言葉を聞いて、まさにそれこそがこの映画で体現するべき根本的な精神ではないかと思いました。

石川:芸術を分かっている人が人を殺すことはない。こうして映画祭という場にいると、そういったことを、束の間でも信じられる気がします。

アーサール:芸術が持つ力は本当に小さなものかもしれません。しかし人が善と悪の間で迷った時に、芸術はその人を善い方へと導くかもしれない。シリアにニザール・カッバーニという有名な詩人がいますが、彼は妻を戦争で亡くした悲劇の後、人を愛することについての詩ばかり作るようになりました。彼の詩には、妻とワインと愛のことしか出てこないんです。彼の詩が持つ力も決して大きなものではなかったかもしれませんが、しかし彼はその力をもって世界で繰り返される悪行を止めようとしたのです。ハンナ・アーレントは「間違いはドミノのように、ひとつ倒れると連鎖してずっと続いてしまう」と言いましたが、芸術にはそのドミノを止める力があるのではないでしょうか。

石川:映画に順番に登場する方々の多くには、画家、音楽家、詩人、舞台演出家、など分かりやすく芸術家としての肩書きがあります。しかし最後に登場する女性だけは、そういった分かりやすい枠組みに当てはまらないように思いました。

アーサール:その通りかもしれません。しかし彼女が大きなザルの中で麦を撫でている姿からは母性的な優しさが感じられ、そしてそれはまるでダフを演奏しているかのようにも見えるのです。ですから私はそれも一種の音楽ではないか、彼女もある種の音楽家と言えるのではないかと考えました。

石川:監督は、芸術と芸術ではないものの境界線はあるとお考えですか。

アーサール:基本的に、境界線はないと思います。同じ芸術の分野でも世界の見方が全く違って、そのどちらも素晴らしいということはよくありますよね。例えば、小林正樹と小津安二郎は全く違う世界の見方をしていますが、どちらも素晴らしい。だからどちらかが芸術でどちらかが芸術ではないと言うことはできない。ニーチェとショーペンハウアーの意見は食い違ったかもしれませんが、しかしそれぞれがそれぞれに素晴らしい見方をしていますから、どちらも芸術です。ひとつ境界線があるとすれば、それが産業かそうでないかということだけでしょうか。

石川:映画の最後に登場した女性がおこなっていた農業であったり、彼女の息子たちが従事していた医療であったり、世間一般的にいわゆる芸術としては考えられていないものも、監督は芸術として捉えうると考えていらっしゃるのではないか、と私は受け取りました。

アーサール:その通りです。

スタッフワークの結集

石川:今回、山形にはいらっしゃっておられませんが、共同監督であり、ご兄弟であるアミール・マスウード・ソヘイリーさんについても教えてください。おふたりの間で何か役割分担のようなことはされたのでしょうか。

アーサール:役割分担について話し合うことは全くありませんでした。でも最初に兄と共同監督をすることになった時には、絶対にうまくいかないと思ったんです。なぜなら私達は映画の好み、見方が全く違うので。自分は伝説などを扱った壮大な映画が好きなのですが、兄は子どもが出てきたりするような繊細な映画が好きです。同じ家族とは思えないほど全く違う映画が好きだと、以前ほかのインタビューでも言いました。しかし映画制作を始めると、異なる意見が出てくることは一度もありませんでした。ここは私が、ここはお前が、というふうに、自然と自動的に役割分担がなされていきました。

 それは我々兄弟だけでなく、他のスタッフとの共同作業においてもそうです。朝6時から夜12時まで撮影した後、どこかで爆発があるかもしれないから外に出てはいけないということになると、屋内に皆で集まって、昼間撮った素材を見るといった作業をするのですが、その時も、作業に関係ないからと誰かが寝てしまうといったことはなく、みんな一緒になってやっていました。それも事前に打ち合わせをして、そういうふうにしようと全員で取り決めたわけではありません。初めから自然とそうだったんです。

 映画に出演してくださった方々それぞれと相性がいいスタッフと、そうでないスタッフというのもいました。例えば先ほども話題に上がった映画終盤に登場するお婆さんとは、兄はあまり通じ合うことができませんでしたが、私とはとても通じ合うことができました。ですからそういった時には、兄は「私に任せる」と言って、あの家の外に出てしまうんです。それに対して、家族全員を亡くしてしまった男性シャーディーとは、私よりも兄の方が通じ合っていました。その時には、逆に私があの店の外に出て行きました。こういったことはカメラマンなど他のスタッフも含めて、我々の間に信頼関係があったからこそできたことだと思います。

 一番すごいと思ったのは映画の終盤、夕暮れの中を女の子たちが歩くシーンです。太陽の光や通り過ぎるバイクのライトなどが素晴らしかったのですが、これは計算して撮ったものではありません。全くの偶然です。わざと撮ろうとしても撮れません。本当に神様のおかげじゃないかと思いました。

石川:スタッフ全員が作品や被写体に対して共通した思いを持って一生懸命に取り組んでいたからこそ生まれた阿吽の呼吸、それがあってこそ撮ることのできたシーンが沢山あるということですね。

アーサール:そうでなければ、この映画を作ることはできませんでした。この映画は我々監督ふたりだけのものではありません。関わった全員が作品のことを愛し、それぞれがこの作品を自分の作品だと思っているんです。昨日、Q&Aが終わってホテルに戻ると、兄をはじめ、沢山の人たちから上映の様子を知りたがる連絡が来ていました。みんな、山形での反応を待ち望んでいたんです。彼らが一生懸命に取り組み、愛してくれていなければ、この作品がこんなに遠くに来ることはできなかったと思います。

石川:ある日本の有名なドキュメンタリー監督が、「映画は生きものの記録だ」という言葉を遺していますが、この映画の全ての登場人物から強い生命力を感じました。悲劇を語っているはずなのに、彼らには、これからも生きていくんだという強い意志がみなぎっている。彼らがそれぞれ手掛けている芸術も含めて、我々は死の世界にいるべきじゃない、生きていく者の世界のために芸術はあるべきだ、というメッセージを受け取りました。この映画にそういった生命力があふれているのは、皆さんが一丸となり知恵を結集させたスタッフワークの結果じゃないかと、お話を伺っていて思いました。

アーサール:ご意見を聞いてとても嬉しく思います。先ほども境界線のお話がありましたが、私にはこの映画の中に境界線というものが3つあると思っています。ひとつは、生と死の境界線。ひとつは、善と悪の境界線。もうひとつは、白と黒の境界線。私は芸術でこれらの境界線をなくすことができると思います。境界線をなくして、良い方向へと進んでいくべきだと考えます。この映画を通して、皆さんにそのような気持ちを与えることができているのだとすれば嬉しいです。

採録・構成:石川泰地

写真:小野寺健/ビデオ:佐藤寛朗/通訳:高田フルーク/2023-10-08

石川泰地 Ishikawa Taichi
早稲田大学在学中から映画制作を開始。監督作に『巨人の惑星』(2021)、『じゃ、また。』(2023)など。YIDFFには2019年より東京事務局スタッフとして関わる。また2024年の「山形ドキュメンタリー道場6』には自身の企画を携えワークショップに参加した。