English
YIDFF 2023 インターナショナル・コンペティション

訪問、秘密の庭
イレーネ・M・ボレゴ 監督インタビュー

聞き手:結城秀勇

見えないもの

結城秀勇(以下、結城):どうして、かつて有名な画家であり、あなたのおばでもあるイサベル・サンタロを被写体に選んだのでしょう。

イレーネ・M・ボレゴ(以下、ボレゴ):私の家族とは関係を断っていたイサベルに最初に出会ったときは、特に映画のことを考えていたわけではありませんでした。たぶん好奇心ですね。でも、家族の中でアーティストなのは私たちふたりだけでした。子どもの頃からイサベルの話はよく聞かされていましたし、子どもの頃に少しだけ見たこともありました。

 初めて彼女のアパートに行ったとき、私の心の中になにか強いものを感じました。ここには映画が隠されているのだと。どんな話題かどんな形式か、そんなことはなにもわからなかったのですが、とにかくただ感じたんです。

 彼女の話はとても印象的でした。その頃の私はフィルムメーカーとしてほんの駆け出しでしたが、彼女が絵画を始めた頃の話は、とてもおもしろいだけではなく、まるで自分自身の話であるように感じたんです。家族との関係の話も他人事には思えなかった。

 私が特に驚いたのは、彼女が本当に金銭的に貧しく、健康も失っていたことです。彼女に会い彼女の厳しい暮らしの様子を見て、とても大きなショックを受けました。そして、私は彼女との関わりをこれで終わらせたくないと思いました。

 映画をつくろうとしたとき、イサベルはロールモデルだったのです。もちろん、私は彼女のように健康を害した、貧しい人間になりたいと思ったわけではありませんが、彼女はアーティストである私にとって避けては通れないロールモデルだったのです。だから、これは変化についての映画なのです。

結城:監督はすでに、イサベルの絵画をご覧になっていたのでしょうか?

ボレゴ:はい、いくつかは。でも彼女の仕事の代表的な部分はすでに、謎めいたかたちで失われてしまっていました。リサーチの結果として、それらがどのような作品なのかは知っていましたが、見ることはできませんでした。

 この映画を準備するにあたって、さまざまなリサーチをしました。美術批評やレビューなどもすべて読み、実際に彼女の仲間だった人物、芸術家としての彼女を知る人物を探しました。

結城:その調査の結果、この映画には、当時の彼女を知る唯一の人物として、アントニオ・ロペス・ガルシアという非常に有名な画家が登場します。彼が証言をしていることは、この映画にとってすごく大きいことではないでしょうか。

ボレゴ:とても大事なことは、彼が映画の中で、音声としてだけ登場するということです。初めから、撮影はしませんから声だけ録音させてくださいと頼みました。

 忘れさられたイサベル、小さなアパートに閉じこもるように暮らす彼女は、別に頭がおかしくなったわけでもなく、紛れもない画家であったということを証明できる誰かが必要だったのです。同じ時代を生き、過去を語ることができる別の画家が。そして彼の声が、いま目の前にいるつらい暮らしを送る老女の、見えない過去を呼び起こしてくれることが重要だったのです。この映画にとって「見えないもの」はとても重要なのです。

 アントニオ・ロペスは非常に有名な人なので、人々はみんな彼についてのイメージをもっています。でもこの映画ではあえて、その彼のイメージを見せないことによって、誰も思い出すことのないイメージもまた存在するのだと気づいて欲しかったのです。主人公であるイサベルは忘れ去られた人ですが、その背後にはとても有名な人がいるというアイディアが私は気に入りました。

結城:この映画の「見えないもの」といえば、イサベルの絵画は観客の目には映りません。

ボレゴ:彼女の重要な作品はもうないですからね。代表的な作品とは呼べないものが、2、3枚はドアの向こうに隠されていたんですけれど、それも見せていません。

 「見えないもの」が、この映画の中で一番重要なのです。アントニオ・ロペスはイサベルについて情報を提供してくれますが、それも完璧なものではない。また他の人物は、彼女の仕事よりも彼女の人柄について語ります。そこにはつねに「見えないもの」が残っていて、観客が欠けたものを補うための余地があります。この映画ではイサベルの絵画は見せませんが、その代わりに彼女が行った選択、彼女の生き方そのものが彼女のレガシーなんです。

 だからこれは反=伝記映画なんです。アーティストの作品も見ることができないし、彼女が何年に生まれてどこどこで学んで……、なんていう話もしません。私は彼女の伝記映画が撮りたかったわけじゃないし、もっと言えばイサベルについての映画を撮りたかったわけですらないと思うんです。私はイサベルを通して、いくつかの問いを共有したかったのです。

結城:アントニオ・ロペスは、彼女の絵が「秘密の庭」のようだと語ります。そしてそのフレーズはこの作品のタイトルの一部となります。

ボレゴ:彼は非常に喚起的で隠喩的なやり方で彼女の絵と彼女の人柄について語っています。

 そう、アントニオが言うには、そこにたどりつくことができれば、美に満ちあふれた場所なのです。でもそれは隠された美である。この映画においては、イサベルの美はあの小さなアパートメントに隠されている。でもそれは一目でわかるようなものではないのです。年老いて弱った彼女を一目見ただけではわからない隠された美が、彼女の内側に眠っているのです。

自画像

結城:この映画の序盤では、イサベルの日常の様子を描いています。そこで非常に重要な登場人物として、猫のラムセスがいると思います。

ボレゴ:そうなんです。私たちは最初から、彼はただのペットではないことを理解していました。彼はひとりの登場人物なのです。なぜならラムセスはイサベルにとって日々の生活をともに送る仲間だからです。彼らはとても親密です。 ちょっとした笑い話ですが、この猫はイサベル以外の私たちクルー全員に対して全然行儀よくなくて、だいぶ攻撃的でした(笑)。でも彼がイサベル以外に唯一、攻撃を仕掛けてこなかったのはプロデューサーでした。誰がボスなのか知っていたんです(笑)。

結城:そうやって彼女の静かな生活を描き、彼女を知る人の証言を聞いた後で、イサベルはエネルギッシュに語り出します。監督と口論したり……。

ボレゴ:そう、口論(笑)。それも映画の一部です。

 イサベルが話し出すのは映画の後半になってから、というのは編集上の選択でした。それは、歳をとっていて、孤独で、そして弱っていて、という彼女の身体の重みのようなものをまず感じてほしかったからです。最初にそれを見ると、もしかすると彼女は病気のせいで話もできないのかと思う人もいるかもしれません。その後で、彼女の非常に力強い語りが入ってくるということが重要だと思ったのです。

 初めて彼女が話し出すときのその力強さに圧倒されると思います。それまではまるで彼女は死につつあるように、彼女には生命の最後の一滴しか残されていないかのように見えると思います。

結城:この作品ではカット頭やカット尻でのカチンコや、マイクの映り込みをあえて残していますよね?

ボレゴ:この作品はいわば映画をつくるための訓練です。これはナイーブなひとりのアーティストが、より賢いもうひとりから、よりよいアーティストになるために学ぶプロセスなのです。それはふたりの共同作業です。ふたりのあいだで起こる反射です。だからある意味で私の自画像でもあるのです。

 そして自画像というものの本質として、私はそれを描き出すために使った道具を映画の中に残しているのです。画家が自らの自画像を描くときに、絵の具やキャンパスを絵の中に描き込むように、私は自分が映画をつくるためのツール、カチンコやマイクやカメラをこの作品の中に残しています。

 私たちは多くのことを考え、リサーチしましたし、絵画の理論についても多く学びました。それはこの映画の「正しいかたち」を見つけることがとても重要だったからです。そして学んだ絵画の理論を映画づくりの方法へと「翻訳」しようとしました。絵画の理論にインスパイアされながら、どうやって映画で画家を描くのかを考えたのです。

結城:なんといってもこの映画で一番感動するのは、イサベルはいまだに現役のアーティストであったということです。

ボレゴ:そうなんです。彼女はひとりのアーティストなのです。いまはもうパーキンソン病になってしまい、手が震えて絵は描けないんですが、それでも彼女はアーティストなのです。彼女の創作の能力、創作への欲望は、とても純粋なのです。なにかをつくっても、展示されることもなければ、誰か彼女以外の人の目にとまることもありません。でも彼女にとってそうしたことはどうでもいいんです。彼女はまさにほかならぬ創作そのものを目的として、創作を行うのですから。

 彼女はカメラを回していないときにもさまざまなものをつくっていました。事物の間にある秘められた組み合わせを探そうと何度も試みていました。

 私にとってこれは本当にアートのレッスンなのです。プロセスに開かれること。一生懸命に取り組み、うまくいきそうに見えると思わぬなにかが起こり、それでもよりよくなるために、続けていくのです。

イサベルのレガシー

結城:イサベルの語る、芸術家として生きることについての言葉には、胸が熱くなります。

ボレゴ:彼女の言葉は、芸術家だけでなく、おそらくすべての人に当てはまることだと思います。つまり、どのようにして自分自身に誠実であるのか、ということです。それは私が彼女から学んだもっとも深い教訓です。この作品は長い映画ではありませんが、非常に凝縮しており、さまざまなレイヤーがあります。

 映画に限らず芸術のひとつの作品は、そこに立ち戻るたびに前とは違うなにかに出会うことができるものだと思います。この作品もまた、そうしたものを目指したのです。

結城:イサベルの困難とは、たんに芸術家としてあることだけではなく、女性であると同時に芸術家であったことだとも言えないでしょうか。とりわけ彼女が過ごした時代を考えると。

ボレゴ:ええ、私たちもそれについて話し合いました。彼女はかつて結婚寸前まで行ったのですが、やめる決断をしました。彼女が若い頃はフランコ独裁政権下でしたが、非常に保守的であって、女性は結婚して、子どもを生んで、育てるということがなにより求められました。彼女は自由でいたかったのです。彼女自身の激しい言葉を借りるなら「私は誰かの召使いになんてなりたくない」。子どもを育てるだけの存在として生きていくことは、彼女にとってまったく平等なこととは思えなかった。当時は女性が自分の資産を持つことも法的に許されていなかったのですから。それでも彼女は結婚を取りやめました。繰り返すなら、彼女は自由であろうとしたのです。

 ただ、そのとき結婚しなかったがために、彼女は財政的にもサポートが得られないまま生きてきたわけです。

結城:しかし映画を見る限り、彼女はその選択を後悔しているようには見えません。彼女の姿に勇気をもらう気がします。

ボレゴ:そうなんです。この映画をつくる前は、私は彼女のようになりたくない、彼女のようになるのが怖いと思っていたのです。でもこのプロセスの最後では、「なんてこと! 彼女こそがロールモデルじゃん!」となるわけです(笑)。自分が彼女ほど勇敢に生きられるかまだわかりませんけどね。

結城:この映画によってイサベル・サンタロが世間により知られるようになったりしたのでしょうか?

ボレゴ:はい。美しい話です。この映画の制作が始まった頃、彼女の絵画をネットで見ることなんてもちろんできませんでしたし、彼女への言及はなにひとつ見つかりませんでした。もちろん図書館へ行って調べればいくつかは見つかりましたけれど、インターネットにはなにもありませんでした。でも私たちのドキュメンタリーが世に出て、好評を博したことで、これを見た画家や美術関係者たちが「すごい! こんなすばらしく賢い女性がいたなんて! いったい誰?」となってさらにリサーチを始めることになりました。あるフェミニズムのアクティビストが連絡してきて、「イサベル・サンタロのWikipediaのページをつくるわよ!」って(笑)。なのでいまでは彼女はWikipediaにも載っています!

 いま何人かの美術史家が彼女の絵画を探そうとしています。彼女の絵そのものは、フィルムの中では見せられなかったのですが、映画の中の彼女自身の姿がとても力強かったのだと思います。美術史家はみんな「こんな人がいたのか、彼女の作品が見たい!」と言うんです。

結城:本当にそうだと思います。この映画が忘れ去られた彼女をある意味で蘇らせたと言っても過言ではない。

ボレゴ:彼女自身もそのことに気づいていました。自分自身はもう忘れ去られたいうことをよくわかっていたのだと思います。

 本当に彼女の精神そのものが、さまざまな人にとってよい影響を与えるのだと思います。本人にとってもいい影響を与えているし、また掃除をしてくれる女性も、彼女は8人の子どもがいるんですが、彼女の子どもたちはお母さんが映画に出てとても誇りに思っている。私にとってもそうです。フィルムメーカーとしての私だけではなく、人としての私にとても大きな影響を与えてくれたと思います。私の親しい仲間にとってさえもそうなんです。彼らとの話の中で、イサベルはこう言ってたよとか、彼女がよく出てきます。

結城:監督自身がかつてそうだったように、これからなにかをつくろうと思っている若いアーティストにとって、ものすごくポジティブな気持ちにさせられる作品だと思います。

ボレゴ:そうだといいなと思います。私にとってこの映画をつくっていた6年間は人生における影のような期間でした。暗くつらい時間でした。

 そこを通り抜けることで、より自由に、よりひらめきに満ちて、より勇敢になれたのではないかと思います。

 人間はそれぞれ違いますが、それでも同じような関心を持ち、同じような恐怖や心配を持っています。そうした人たちにこの作品を通じていい影響を与えられたらいいと思います。

採録・構成:結城秀勇

写真:牧田美希/ビデオ:加藤孝信/通訳:平野加奈江/2023-10-06

結城秀勇 Yuki Hidetake
映画批評、編集者。共編著に『映画空間400選』(LIXIL出版、2011年)、共著に『エドワード・ヤン再考/再見』(フィルムアート社、2017年)、『ジョン・カーペンター読本』(boid、2018年)、その他映画パンフレットへの寄稿など。