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YIDFF 2023 インターナショナル・コンペティション

あの島
ダミアン・マニヴェル 監督インタビュー

聞き手:結城秀勇

つくられることのなかった映画が、記憶と思い出の中から甦る

結城秀勇(以下、結城):まずは作品の成り立ちについてうかがえますでしょうか?

ダミアン・マニヴェル(以下、マニヴェル):この作品の前の2作、『イサドラの子どもたち』(2019)と『マグダラ』(2022)では、「死」や「喪失感」をテーマにしていたので、今回は別の感情を伝える映画をつくりたかったんです。言ってみれば「青春」のようななにかを伝える映画を、10代の若者たちと一緒につくりたかった。芸術的な側面でも、スタイルや制作過程においても、それまでとは違うものを。そこで私は、小さなクルーを組織して、プロの俳優ではない7人のティーンエイジャーを集めました。私のコンセプトは、ブルターニュ地域の海岸で一緒に2週間を過ごし、セリフを練り、作品を準備するというものでした。映画の中心的なアイディアやストーリーはすでに頭の中にありましたが、彼女たちと一緒に、素材を持ち寄り、さらなるアイディアを見つけ、脚本を書くためのワークショップのようなものを行いました。

 その後、1か月半の中断を挟んで撮影に入るため、撮影方法を考えたり、シナリオを準備したりしていたのですが、この中断のあいだに、撮影のための予算が確保できなくなるという問題が発生しました。とても腹だたしく、悔しかったのですが、企画を中止する決断をしなければなりませんでした。キャストやスタッフの全員に電話をして、この映画をつくることができなくなったことを伝えると、みんな悔しがっていました。企画を途中で中止したのは、私にとっても初めての経験で、とても打ちのめされてしまい、私はフランスを離れて日本で1か月を過ごすことにしました。フランスからとても遠いところに来て、気持ちを切り替えることができましたし、この企画のことを考えないようにすることもできました。

 そして日本滞在の最終日のこと、アソシエイト・プロデューサーから電話がかかってきました。「調子はどうだい?」と。「だいぶマシになってきたよ」と答えると、「もし気分がよくなってきたなら、あのときの素材でなにかつくってもらえないだろうか?」と言われました(笑)。というのも、私たちはブルターニュ地域から助成金をもらっていたからです。彼は「15分とか20分の作品でもいいからなんとかしてくれないか」と言ってきたのですが、私は断りました。私にとっては思い出すだけでもあまりに辛すぎることだったからです。しかし、電話を切ったその日の午後、しばらく考えているうちに、アイディアが思い浮かんだのです。リハーサルの素材や、映画にはならないはずの素材を全部使ったなら、構成が見つかるかもしれない、これらの素材を使って私がつくりたかった映画をつくる方法が見つかるかもしれない、と。それからフランスに帰り、HDDを開いてすべてのラッシュやフッテージを見ました。そして私は気づいたのです、それらが本当に美しい素材であることに。

結城:この作品は、稽古場、日中の海辺、そして夜の海辺のシーンなど、複数の時間から構成されています。どのようにそれらを組み合わせて映画をつくっていったのでしょうか?

マニヴェル:2週間のあいだ、稽古場や海岸で、毎日朝から晩までリハーサルを重ねていたので、本当にさまざまな素材が大量にありました。ですから、アソシエイト・プロデューサーからの電話の後で最初に考えたのは、「それらをどのようにミックスすればいいのか?」ということでした。場所も時間もバラバラで、互いに特別に関係づけられているわけでもない素材でしたから。でも私は、「そんなのは気にしない」というところからはじめました。それよりも私には語らなければならないストーリーがあった。それが主人公のヴォイス・オーヴァーがある理由です。だからこの作品はとても流動的ですし、そこにストーリーラインがあることも感じられると思います。夜になろうが昼になろうが、場所が変わろうが、私は気にしませんでした。フランスに戻った初日にハードディスクを開き、試しに編集してみると、うまく編集が進んでいきました。うまくいかないかもと少し怖かったんですがうまくいったし、しかもただうまくいっているだけでなくおもしろかったし、同時にこれはなにかを語ろうとしているという感じがしたんです。記憶の流れのように、あるいは夢の中の考えのように。この物語にしたがっているのだから、ほかのなにも気にする必要などないのだと気づきました。

 あとになって、なぜ編集がうまくいったんだろうと考えてみたんです。うまくいかない可能性だってあったのですから。それでも結果的に映画がうまくいったのは、彼女たちの演技や彼女たちがそこにいる様子に、常に強さがあったからなのだと思います。稽古場であろうと海岸だろうと、昼だろうと夜だろうと、彼女たちは常に強烈な激しさを保ちながら演技を続けていました。だからこそ、時間や空間を気にすることなく、彼女たちの激しさを追いかけることができるのだと思います。この映画は強さについての映画なんです。映画の中で彼女たちはパーティをしていて、このパーティが終わらないように、この熱気が消えてしまわないように、と望んでいます。そのおかげで、すべてのシーンが非常にまとまっていました。私は編集をはじめてすぐに、この映画がなにについて語っているのかを理解したのです。

結城:この映画では夏の終わりのパーティが行われていて、それはロザにとって故郷での最後のパーティであり、青春の終わりのようでもあります。いまおっしゃったように、この映画では時間が行ったり来たりするために、この夏の終わりの一晩がいつまでも終わらないような感じがします。それはこの作品の特殊な魅力だと感じます。

演技をすることとは

結城:『あの島』というタイトルについてもお聞かせください。彼女たちは、実際には島ではない、海岸にある岩の周りの場所のことを「あの島」と呼んでいます。

マニヴェル:ワークショップをする1年前くらいだったでしょうか、電車に乗っているときに、7人のティーンエイジャーを集めて、ビーチでパーティをし、一緒に映画を撮るというアイデアが浮かびました。タイトルは、まさしくその瞬間に思いつきました。ですから、この作品が『あの島』というタイトルになることはわかっていましたが、それ以上のことはなにもわかっていませんでした。しかし、この映画を撮ってわかったのは、「あの島」というのはもちろん登場人物としての彼女たちがいる場所なのですが、10代という人生の瞬間のことでもあり、私たちの映画づくりのやり方でもあり、映画の中に少しだけ登場する私たちクルーのことでもある、ということです。この映画は重層的です。フィクションであり、彼女たちの「島」であり、彼女たちのパーティーであり、彼女たちの青春であり、彼女たちが生きている場所であり、同時に私たち、俳優たちとクルーそして私自身、その全員が2週間映画づくりに挑戦したことでもあるのです。それにはどこかユートピアのような感覚があり、だからこそ彼女たちはパーティーから離れがたく、撮影からも離れがたいのです。ですから、この映画がどのようにつくられたのか、その成立過程について話をするのは私にとってとても感動的なことなんです。もちろんこれは偶然の産物なのですが、だからこそ心が動かされます。

結城:勘違いでなければ、稽古場のシーンなのに、海の音が鳴っている箇所があったように思いますが、それは編集で被せたのでしょうか?

マニヴェル:そうです。いろんな空間をオープンにし互いにミックスすることがアイディアの核としてあり、いろんなところにヴォイス・オーヴァーが入りますし、生々しいドキュメンタリーのシーンでさえ、ヴォイス・オーヴァーが重ねられています。ものの見方を変えてみるということは、映画的にとても興味深いことです。稽古場にいるときでさえ、彼女たちは海のことを考えて演技をしていました。

 演技はこの作品のもうひとつのテーマです。演技をするとは具体的にどういうことなのか、ということについての映画でもあると思います。この映画において、その答えは「想像力と感情を用いて、その両方を結びつけること」です。だから稽古場でも、私たちは海を見ているような感覚、風の音を聞いているような感覚があるのだと思います。この感覚について私たちは何度も話しました。ロザが稽古場でダンスしているとき、想像力を働かせたからこそ、彼女は砂を肌で感じ、風の音を聞くことができたようなのです。

 彼女たちはプロの俳優ではないので、映画に出演するのは初めてでした。ロザは本当に怖がっていて、「できない」「どうしたらいいかわからない」といつも言っていました。ですから、彼女がいろいろなことに挑戦する自信を持ち、強くなることができるように、私は彼女のそばにいなければなりませんでした。彼女はすべてのショットに出演していて、とても身体的な演技が求められていたので、この映画はとても大変な仕事だったと思います。でも彼女は恐怖を克服し、やりとげた。そう結局……、彼女はこの映画でほんものの俳優なんです。

結城:「演じること」についての映画だとおっしゃっていましたが、私たちは通常、リハーサルを重ねて、現場に行っていろいろ準備をしたら「演技が上達する」と考えがちです。しかし、この映画に映っているのはそういうことではありません。

マニヴェル:そうですね。質問を聞いてふと思ったことなのですが、おもしろいことに、私は他の作品ではリハーサルをまったく行いません。それは、俳優同士がお互いに出会って、話をして、触れ合う、その最初の瞬間を捉えたいからです。リハーサルは行わず、この映画にもあるように、撮影中に俳優たちと話し合うのが私のスタイルなのです。なぜそうするかというと、撮影をリハーサルのように感じてもらうためです。これは、私がすべての映画で行っている方法です。みんながリラックスして演技できるように、私は「これはリハーサルのようなものなんだ」と伝えながら撮影をするのです。もちろん、私の頭の中では映画をどうしようか真剣に考えてはいるんですが、俳優たちには、撮影とは一緒になにかを試みる、適切な動きや適切な言葉を一緒に探すプロセスだと思ってもらいたいのです。

 私はいつもこのようなスタイルで作品を作っているのですが、この作品では初めてリハーサルを行い、そのリハーサルがそのまま作品になりました。ちょっとおもしろいですよね。

厳密さと曖昧さのあいだで

結城:この映画の中では、ちょっとした指の動きやタバコを吸ったフリといった、些細なジェスチャーのクロースアップが非常に美しく切り取られています。

マニヴェル:それは、カメラマンであるマチュー・ゴデの才能だと思います。私たちは、どんなショットを撮るかをあらかじめ正確に決めていましたが、ときどき他のショットも自由に撮影することを許可していました。いつも、即興的なものと厳密に決めたものとの混合なんです。たとえばダイアローグひとつとっても決められた台詞とそうでない台詞の境界線を曖昧にしたり、カメラマンに自由を与えたり、俳優たちに新しいことを試す自由を与えたりしています。彼らがその瞬間に「これでいい」と思えば、それは常に筋の通ったものなのです。同じことは私自身にすら言えて、いまの私は作品を見ても、どれがあらかじめ決まっていたことで、どれが決まっていなかったことなのか覚えていません。そのふたつはもうすでに深く結びついているのです。

 夜のシーンがありますよね。あそこは、朝の4時ごろに撮影を開始して、夜が明けるまでの1時間30分のうちに撮影のすべてを終えなければなりませんでした。彼女たちはその限られた時間で、台詞、ジェスチャー、振り付けといったすべての要素で、持っているエネルギーをすべて出し切りました。しかし私は、その撮影には参加していなかったんです。

 私は彼女たちに、「今日は一日中リハーサルをやったので、これからはきみたちの時間だ。カメラマンときみたちだけ。これはきみたちの映画だ。僕はそこにいないから、きみたちを助けてやることはできない。全部自分たちで責任を持ってやらなければいけない」と言いました。ティーンエイジャーである彼女たちにとって、私のような大人が「きみたちを信用する」と言うことは、特別なことだったんです。そして私は、彼女たちから遠く離れた場所で撮影の様子を眺めて、1時間30分後、海岸に戻りました。だから、彼女たちの演技はとても強烈なんだと思います。彼女たちは、大人から信頼されていると感じて、そこに自分たちの責任を感じて、すべてをやりきったんです。

結城:この作品のヴォイス・オーヴァーは、編集がある程度固まったあとで録音されたんでしょうか? というのも、このヴォイス・オーヴァーと映像とはかなり不思議な関係にあるように思えるからです。たとえばオルガとロザの会話に、「彼女は美しかった」というナレーションが重なりますが、あたかも映画を見ている私たちがその瞬間に感じていることを代わりに語っている気さえします。

マニヴェル:ヴォイス・オーヴァーのテキストはワークショップの最中から書いていました。この映画の最後のショットは、ロザがヴォイス・オーヴァーをリハーサルしているところです。その時点で基本的なアイディアはありました。その後編集が進むにつれて書き直したりしていたのですが、書いたテキストをロザに送って、彼女が録音をして送り返して、私が編集をしながらまた書き直して、「来週はこのフレーズをやってくれる?」という感じでつくり直していきました。おもしろいのは、ヴォイス・オーバーはロザが自分のiPhoneで自分で録音したということです。それはもちろん完璧な録音状態ではありませんでした。編集が完成した後で、私たちはちゃんとしたミキシングスタジオに行って、一日中、30回ほどテイクを重ねて、完璧なヴォイス・オーバーを録音しました。そして、この完璧なヴォイス・オーヴァーを映画に挿入して、見てみました。でも、なにも感じなかったんです。それは正しくもなければ、よくもなかった。だから最終的に、彼女がiPhoneで録ったものを使用することに決めました。不格好ではあっても、彼女自身がやったもののほうがよかったんです。この話は、結果的にこの作品のストーリーに似ていると思います。この映画では、物事は完璧であってはならないんです(笑)。

 映画の最後のヴォイス・オーヴァーのリハーサルの場面を撮影していた時点では、この映画がどの場面からはじまるべきなのかがまだわかっていませんでした。ロザが読み上げるセンテンスを聞いて、「ああ、これはいいはじまりになるかもしれない」という話をしています。そしてその場面自体は、この映画のラストシーンになりました。ここを編集していてすごく感動したのは、ロザがなにかを探しているように感じられたからです。この映画の全体を通して、私たちクルーの全員が、なにかを模索しようとしていましたから。

 このシーンの彼女の眼差しは、本当に素晴らしいものだと思いましたし、これでこの映画を終わろうと決めました。その瞬間のロザの眼差しは、ロザという登場人物の眼差しなのか、それともそこから離れた日常の彼女の眼差しなのか判別がつかなかった。彼女がふたつの世界のあいだに存在しているような、本当に不思議な、素晴らしい瞬間だったと思います。

採録・構成:結城秀勇/編集協力:板井仁

写真:熊谷羽留/ビデオ:大下由美/通訳:川口隆夫/2023-10-08

結城秀勇 Yuki Hidetake
映画批評、編集者。共編著に『映画空間400選』(LIXIL出版、2011年)、共著に『エドワード・ヤン再考/再見』(フィルムアート社、2017年)、『ジョン・カーペンター読本』(boid、2018年)、その他映画パンフレットへの寄稿など。