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YIDFF 2023 インターナショナル・コンペティション

交差する声
ラファエル・グリゼー 監督インタビュー

聞き手:阿部宏慈

ブーバ・トゥーレとの共同作業

阿部宏慈(以下、阿部):『交差する声』は、ブーバ・トゥーレの長いキャリアを、多様性と継続性、豊かさと共に語るものです。アカデミックでジャーナリスティックな伝記的再現ではなく、トゥーレの人間性への深い共感と敬意、彼の活動への連帯感をもって描き出しています。このような形で、トゥーレの個人史の全体を、植民地主義への抵抗という歴史的展望の中に入れつつ映画を作るというアイディアを抱くに至った経緯を教えてください。

ラファエル・グリゼー(以下、グリゼー):大変大きな質問で、答えるのは容易ではありません。ブーバ・トゥーレに出会ったのは、フランスです。彼は私の母の友人でもありました。彼はソマンキディ・クラ協同組合の代弁者として、フランスで過ごす時期があり、教育者でもありました。フランスに来た直後から写真の仕事を通して歴史を伝えることを重視し、特に“移民労働者”と呼ばれた人々の状況を伝えることを重要な使命としていたのです。いつもスライド・プロジェクターとカメラを持参し、フランスの移民労働者たちの住居で長時間過ごし、何が起きたかを尋ね、同時に、農業協同組合について説明し、植民地出身者の闘いを語っていました。それは彼が自分の村などでもやっていたことで、フランス人に対しても同じように実行し、私のようなそういう状況に無知な人間や全く繋がりのない人々に対しても語っていたのです。私もまたこの歴史の中に巻き込まれたのです。後に、美術学校の学生となった時、私は、彼の写真の仕事を思い出し、2004年からブーバとの対話を始めました。この映画を撮るずっと以前です。私は、彼の道のりやその基底にあるもの、彼の成し遂げてきたこと、彼の世代の状況を捉えるのに多くの時間を費やしました。彼は実に辛抱強く、繰り返し同じ物語を語ってくれたのです。このように彼はいわば外交官、教育者、そして語り部としての役割を果たしてきました。この映画を撮りたいと考えたのは、かなり早い時期、2004年〜2005年にかけてです。ブーバ・トゥーレの生き方、先祖伝来の知恵や祖先の存在を感じ、祖父母たちが経験したことを感じられる映画を撮ろうと考えたのです。

 彼が制作や配給したフィルムやビデオ、写真作品と俳優として出演した映画などについても多くの議論を交わしました。モーリタニアの映画作家シドネ・ソコナによる映画が2本ありました。シドネ自身移民労働者住宅に住み、ヴァンセンヌ(パリ第8大学)で映画を学び、メド・オンドの助監督もしました。2本の1本目は『国籍:移民(Nationalité : Immigré)』(1975)で、ブーバは映写技師だったこともあり、そのコピーを40年間守りました。もう1本は『サフラナ あるいは言葉の権利(Safrana ou le droit à la parole)』(1977)でした。この映画はフィクションですが、協同組合を創設するグループの物語です。

 私の映画は、これらのイメージの制作について語りたいという考えと、彼の映像によって歴史を視覚的に残す映画として語りたいという思いがありました。彼の声を集め、彼の制作物や映像を集約する映画形式を見つけたいというのが出発点でした。

 まず、『ソマンキディ・クラに種を撒く(Sowing Somankidi Coura)』という本を出版しました。ソマンキディ・クラの誕生に関する資料を集め、それは映画にも入っています。展覧会のプロジェクトもありました。映画の素材となった資料を展示し、それについて議論しました。美術館、芸術センターで我々の活動につながるグループの活動場所などで、パリ、ベルリン、セネガルで行いました。

 というわけで、私とブーバ、どちらがこの映画作りの過程を統括したかを明確に述べるのは困難で、つまりは深いところでお互いが共通した思いを持ちながらのコラボレーションでした。映画はブーバ・トゥーレの辿った道のりの物語を伝承するためのプロジェクトのひとつに過ぎなかったのです。

 例えば、フィクスの画の上に、ブーバの声が重なるシークエンスがありますが、そこでブーバが語るテクストは、10年以上前からのインタビューがベースです。それを再構成し、ソニンケ語に翻訳し、映画を多声化したのです。アーカイヴ映像は共同でセレクションしました。映画中で重要な部分となることはわかっていたからです。共同作業は映画のファースト・ショット以前から続いていたのです。

阿部:映画の中の蟻塚の映像などは、植民地政策、その抑圧的政策についての鮮烈なイメージとして現れます。

グリゼー:シロアリの映像自体がたくさんありました。蟻塚を崩した土で灌漑用水路を作るということがあります。他方、蟻塚は、この地に最初に住んだジン[精霊]的存在の棲家として位置付けがあり、協同組合を設立した場所と、ある種コスモロジックな関係にあるのです。したがって、私にもブーバにも、この映画でシロアリは特別な登場人物として出てくるべきだということがすぐにわかりました。なぜなら、この映画の目的は植民地時代の起源から、未来に開かれた歴史的厚みや深い時間を描こうとすることでした。映画はブーバのような人物を通して、時間の中を往来するのですが、シロアリもその登場人物となるのです。川も同様です。種まきや耕作といった場面で重要な役割を果たす、物語の主題、登場人物となって、植物の物語を横断するのです。そういうイメージを求めて、植民地時代のアーカイヴを探索したのです。

阿部:他方には、ブーバ・トゥーレが自室でカメラを構えて語る映像があります。印象的なのは、そこで彼が「なぜなら私は死にたくないので」「私は時間と共に歩む」と述べる部分です。そこから母親と並ぶ写真へとパンしていく映像は素晴らしい。あれはブーバ・トゥーレ自身が作った映画作品で、それをこの映画の中に再度取り込んだということでしょうか?

グリゼー:その通りです。彼のパリ11区のアパルトマンで撮影した作品です。2008年に1時間で撮影したものを編集したもので、私たちの共同作業のイメージとして用いたのです。元のフィルムを約30分に編集し、いくつかの展示会で上映しました。これはブーバの映像アーカイヴ的なものとして、作品中に取り入れたのですが、そこで彼は、映画を撮る自分自身を語るだけでなく、家族との関係について語り、自らを時間の中に位置付けようとしています。そうして、人が、それら過去の時間と再度結びつくことを可能にします。ブーバは、旅人であるだけでなく、祖先の目で世界を見る人でもあり、強靭な歴史意識を有した人だったのです。自分の仕事も時間枠に位置付け、写真作品についてもそれらの撮影日について体系的に情報を残しましたし、受けた物でも、受領日を必ず記録していました。彼にとっては、自己の物語を、旅の日付、時には強制された旅つまり移民するための移動などの日付とともに歴史に書き込むことが重要だったのです。

重なり合う物語

阿部:本作のナラティブは、いくつかの部分に分かれている。ブーバ・トゥーレのマリからの出発に始まり、フランスからマリに戻っての苦労、ソマンキディ・クラ協同組合の創設という物語と、先祖たちの戦線への徴用など植民地の歴史がそこに重ねられ、最後は一巡して、再びマリに戻るような感じを受けます。続いて、労働者として渡仏した人々の受ける差別的や抑圧への抗議活動の歴史を追う部分では、また歴史を始まりから現在までたどり、次にまた最初に戻る。このような構成を選んだのはどのような理由からですか?

グリゼー:この映画は時間的な展開を孤立したものとして描こうとしていないのです。それらは互いに関係しあい、層をなし重なり合っている。山脈のように、ある部分では隠された層が表層に現れ、ある部分では別の層が現れるというように。同時にそこには記憶のシステム、想起のプロセスがあります。何かを思い出すということは、どこかで記憶が蘇ることです。この映画は線的に進まなければならなかったのですが、同時に、いくつかの重要な点を強調しなければなりませんでした。例えば協同組合の物語とフランスにおける移民労働者・不法滞在者たちの物語、そして植民地の歴史です。その複雑さを映画の中にももたらしたいと考えたのです。問題の複雑さがそのまま映画中にも反映され、編集作業は困難を極めました。

阿部:例えば演劇的なパフォーマンス『トラアアナ』は3部に分かれて映画の中に取り込まれています。

グリゼー:この映画の取り込みについては、私はむしろ編集を担当したチャギグ・アルズマニヤンの仕事に感謝したい。この演劇作品を映画に取り込むには大変困難があったのですが、実にうまく配置し、モンタージュについて本当に心底からの共同作業ができたと言えます。

阿部:イメージが非常に美しく、最初は海に浮かぶ小舟の上で、やがて町の姿が対岸に見えてくる構成は印象的でした。それがまた本作では、見事に映画の語りの重要な部分に取り込まれていた。

グリゼー:アフリカの文化における演劇的要素の重要性もあります。演劇的素材を取り込むことは移民たちの運動の中でも重要な文化的要素だったのです。事前の調査がモンタージュ作業を助けたとは言えます。ミクロな歴史を植民地支配の悪しき影響の大きな枠で考えようとしたのです。それは今日なお私たちの生きる世界で続いている。尺度を変えて見ることが重要だったのです。ブーバの生き方についての質問に答えれば、ブーバという人物は、30年間、1年の4か月をマリで過ごし、残りをフランスで過ごしたわけですが、どちらかを取り、他を捨てるということを決してしない人でした。地理的にもふたつの空間の間に生き、ふたつの場所から思考したのです。時には新植民地主義的な閉塞的関係についての複雑な思考であり、同時にその事態を動かしたいという思いでした。従って、異なるトポグラフィーを持つ空間の間を行き来する形式はそこから生まれたものであるのです。

阿部:つまりナラティブの問題というよりは、異なる空間的配置の問題ということですね。ところで、もうひとつ重要な要素は、移民労働者への支援、例えば労働取引所を占拠した移民労働者の滞在場所であるフォワイエ・リケについてのルポルタージュです。この点では、この映画は社会の縁辺に置かれた人々の社会的抑圧への抗議活動に寄り添うアクティヴィスト的意思を示すものに見えます。それは、国立移民史博物館を占拠した移民労働者にインタビューする映像から5月革命の頃の映像に進み、当時歌われたドミニク・グランジュの「警察国家を倒せ!」が今日のフランスでのデモでも聞こえてくるという映像まで連続します。

グリゼー:ブーバ・トゥーレにとって、それは単なる歴史の一部ではありません。彼自身それを生きたのです。68年当時のパリを考えるならば、そこには、アフリカを逃れ、パリで活動し、移民労働者の闘争を指導していた政治亡命者たちの影響も多くありました。アフリカにおける闘争についても同じです。ブーバは、労働者としてフランスに来たわけで、それらの住居を経験してきたということがあります。私自身もこれについては彼の言葉に耳を傾け続けるほかなかったのです。そうして、彼の語る物語の大きさを見定めるべくつとめたのです。私自身は新しい世代で、彼の世代の人々から歴史を学ぶことは重要だったからです。その点、労働者たちの闘いの個別性は消える傾向はあっても、重要なのは、こうして出会った人々との連帯感を生み出すことなのです。例えばポルトガルによる植民地支配からの解放を支援する団体の運動に出会い協同組合を作る人々も、そういった運動の中から生まれてきたのです。新しい世代である私は、学生運動や支援活動、さらには国際主義的活動や第三世界主義的な活動の重要性を見極めるべくつとめたわけです。それらの運動は、結果として例えばエコロジー問題など多くの問題に関して、豊かな運動を生み出したわけです。理解することが重要であり、昔からある事項や歴史を知ろうとする力を新しいジェネレーションに与えることが重要です。

交差する言語、声、音楽

阿部:映画の最後は、アフリカの地方ラジオ局の活動を描いています。このラジオは農民に重要な情報と科学的知識を与えるものです。これまで描かれてきたことと対をなして、グローバル経済による農業従事者の疎外の現状への抵抗運動とも見えます。映画の最後で、地方ラジオ局の活動を提示したのはどのような理由からでしょうか? 私個人は、この終わり方は非常に自然なものと感じたのですが。

グリゼー:ブーバ・トゥーレと、この映画のスクリプトを作りながら、様々議論する中で、最後はむしろ抒情的な複数の声を与えることが必要であるということになりました。ある種のオマージュというか、西アフリカで伝統的に続いている吟遊詩人による歌、人生のそれぞれの時期に大切であった人に捧げる歌のようなものを入れたいと望んだのです。さらに、より音楽的な側面を持ちたいという思いから、ポリフォニックなものにしたいと考えたのです。実際、ラジオのエピソードは、いくつかの理由からどうしても入れなければということになったのです。ひとつは、研究者が持っていた地域ラジオの映像があった。同時に、協同組合に参加する人々が聞くラジオ局はソマンキディ・クラと完全に連携していた。また、インディペンデントなラジオの存在はそれ自体が重要で、フランスにおいても自由なラジオ局の活動は、社会的発信のツールとして重要な役割を担っている。特にフランスでは、ラジオは抵抗のイコン的存在でもあります。このラジオ局は元々ムーサ・トラオレ独裁政権下で生まれたものです。従って、それは直接的に政治的なツールではなく、農民の仕事を支援するものでした。「農民による、農民のためのラジオ」というのが誕生時のスローガンでした。しかもこのラジオは多言語的で、ソニンケ語、バンバラ語、プラール語、カソンケ語など、この地方で話されている4つの言語でなされていました。同時に、このラジオは他国に離散した人々に声を与えるものでもありました。遠く離れたところで羊飼いなどをしなければならない畜産農家などにとって、それは今日もなお非常に有効なツールであるだけでなく、村の日常に触れたいと願う海外に離散した家族にとっても有効なのです。ラジオはまさに、遠く離れた人たちに声を届けるツールであり、映画としてはラジオを、音響的な空間を再発見する場として見せたいと考えました。そして、映画の中に出てきた全ての空間が、最後には、そこに再び取り入れられるように。

阿部:確かに、映画の最後のシークエンスにおいて声が重要な役割を果たす。声に答える声としてラジオの声が、遠くにある人々にも届けられるという点で非常に重要だということがよくわかります。しかも、それは隠れた層としてすでに映画の前半から存在していて、ここで明らかになる。また、音楽が重要な役割を果たしています。現地の言葉で歌われた歌が、大変美しく、感動的です。

グリゼー:その通りです。吟遊詩人のマー・ダンバです。彼女とのコラボレーションは、ブーバ・トゥーレの勧めによるものです。というのも、彼女は、しばしば、移民労働者が占拠した労働局などで歌った歌手で、ブーバと共同で作成したスクリプトにもすでに彼女の歌の使用が指示されていました。そしてまたそれはラジオにも重要なことでした。というのも、そこでは、マー・ダンバがバンバラ語で歌った歌をソニンケ語に訳して、どんな内容であるかが説明されるのです。最後にはまたそれをプラール語に訳し直す。根底には、これら異なる言語の声を聴かせたいという意志が存在していたのです。最後にはブーバ・トゥーレ自身がソニンケ語オフで語ることになりますが、それはまさに必然的結果なのです。この収録は困難な作業になりました。ブーバはすでに病気が進行していましたが、語りの作業を引き受けました。ブーバの声は、他の語り手のや歌手たち、シラ・ドラメなどのグリヨットとともに彼が作り上げたリリックな声なのです。グリヨットたちは、楽団員とバスでスタジオまで来て、映画のために録音をしました。この場を借りて彼女をはじめとする多くの音楽家たちに心から感謝の意を表したいと思います。

 移民労働者の闘争、解放に向かう物語の全体もまた歌となり、歌は多くの異なる空間、離れた空間を結びつけるものです。アーカイヴ映像にはたくさんの音楽が用いられていましたから、音楽を消すよりは、むしろそれを歓迎し、再活用し、その声を再び電波に乗せることを選んだのです。

 後の方では最近の音楽、例えばソニンケ語のヒップホップなども用いてラジオがそれらを届ける役目をしているのです。音楽的な引用は他にもたくさんあります。映画の最後に出てくる歌はソナ・コトラのフォワイエにおける闘争を歌ったもので、元来はフランス在住のセネガル人の学生たちが作った音楽アンサンブルであった「5月26日」という劇団によって作られました。ブーバ・トゥーレは常に音楽を聴く人でしたので、この映画もまた音楽的でなければならなかったのです。

阿部:実際映画のラストシーンは、セネガル川のイメージに、タイトルとともに音楽が重なり、全体がそこに流れ込むような印象的な終わり方です。

グリゼー:ソニンケ語では「ファンコレ川」と呼びます。最後に、もう一度この映画の形式に戻り、リフレインのような繰り返しや再現といった時間的構造がこの作品のひとつの重要な部分だったと言えます。

採録・構成:阿部宏慈

写真:古川愛理/ビデオ:佐藤寛朗/2023-10-09

阿部宏慈 Abe Koji
山形国際ドキュメンタリー映画祭理事。東北大学文学部卒、同大学院博士後期課程中退。20世紀のフランス文学、特にマルセル・プルーストの研究、ドキュメンタリー映画の理論的研究を専門とする。著書に『プルースト 距離の詩学』(平凡社、1993年)、共訳書にジャック・デリダ『絵画における真理』(法政大学出版局、2012年)など。