ペドロ・コスタ 監督インタビュー
映画は時間を旅する
Q: 当初の構想では、より音楽に焦点を当てた映画となる予定であったとうかがいました。その内容は本作『ホース・マネー』にも受け継がれているのでしょうか?
PC: ギル・スコット=ヘロンという有名なミュージシャンがいますが、最初は彼と共同作業をして映画を作りたいという欲望だけがありました。当初は歌と台詞のある、1、2時間の、ある種の巨大な音楽であり祈りのような作品をつくる予定でした。その痕跡は最終的にできあがった本作にも残っているような気がします。たとえばこの映画が展開する場所の人々が次々と映るモンタージュ、歌そのもの、特にエレベーターのシーンで2人の後ろから様々な人物の声が聞こえてくるところなどがそうでしょう。
Q: 各シーンは時系列に沿っておらず、まるでヴェントゥーラの記憶がランダムに蘇ってくるように配列されていましたが、そのような意図はありましたか?
PC: まさにそうだと思います。本作の撮影はエレベーターのシーンから始まったのですが、そのときに彼の話が直線的ではなく、前に行ったり後に行ったりすることに気がつき、この映画の旅路というのもそうあるべきなのではないかと思ったのです。たとえばそれはSF映画に見られる、時間の中を旅するような感覚です。映画ほどこういった表現に向いた媒体はないと思うのです。なぜなら過去を舞台としているかのような映画であっても、そこに映っているのは常に現代であるからです。溝口はものすごく頭のいい人だからそれをわかっていて、一見過去を映しているように見せつつも、彼の『西鶴一代女』でのお春は現代の女であり、どの時代にあっても苦しみながら旅を続ける女なのです。
また、文学や絵画においては、時間に対してより自由で複雑な接し方が行われているのに対して、映画は現代に至っても非常に直線的な、単純化されすぎた時間にとらわれているように感じます。時間は悲劇的です。私たちは過去に記憶を持ち、その一方で未来に計画をたてることもできますが、そのすべてには終わりがあるのです。そしてその終わりとはけっしてドラマチックではなく、悲劇的なのです。
Q: 映画の中で人々を悲劇から救うことはできないのでしょうか? ある意味でヴェントゥーラは、監督に撮られることによって少し救われたのではないかと感じました。
PC: 私自身はとても悲観的な人間なので、映画や芸術は人々、特に最も苦しんでいる人々に対して何もできないとつい思ってしまいます。しかしそう言ってしまうことは小津、溝口、チャップリンを攻撃することになる。私は彼らを批判したくありません。なぜなら彼らはそれをやり遂げたからです。人々は彼らの映画の中でとても美しい。勇敢で、傷つき、強く、弱い、これこそが人々なのです。現代の子どもたちにとってもチャップリンの映画は通用しますので、そういう意味ではきっと希望はあるのだと思います。
Q: タイトルについて教えていただけますか?
PC: 実はものすごく簡単な話で、ヴェントゥーラが昔飼っていた馬の名前が「お金」だっただけです。お金というのは、我々の社会が発明した最も邪悪なものだと思ってしまいますが、一方で彼のように社会の片隅に追いやられてそこから出たいと思っている人々にとっては、光り輝く夢のようなものに聞こえるのかもしれません。この映画のタイトルに「マネー」という単語を使うことで、我々の思っている醜い物としての意味合いから、もっと違った響きに感じさせられないかと思ったのです。
(採録・構成:稲垣晴夏)
インタビュアー:稲垣晴夏、川島翔一朗/通訳:藤原敏史
写真撮影:狩野萌/ビデオ撮影:宮田真理子/2015-10-13