目の前の現実を観察する
Q: 今回の『演劇1』『演劇2』で観察映画第3弾、第4弾ですが、劇団青年団に興味を持たれたきっかけはなんでしたか?
SK: 93年からニューヨークに住んでいて、ずっと青年団という存在を知りませんでした。ですが2000年に青年団が『東京ノート』という代表作をニューヨークで公演する機会があり、それを偶然観に行きました。それまでの私はどちらかと言えば、現実ではありえないセリフを言ったり、大げさな演技をする演劇というのが苦手な方でした。しかし『東京ノート』を見た時に、そのようなわざとらしい演技を覆すもので、とても衝撃を受けました。その時に映画を撮るプランはなかったのですが、俳優の友人が青年団に入ることが決まり、それを機に撮影を求める手紙を平田オリザさんに書きました。
Q: 監督が実践している観察映画の定義とはなんでしょうか?
SK: 観察映画の観察ということには、ふたつの意味を込めてあります。まずひとつ目は、作り手自身が目の前の現実をよく観察するということです。ドキュメンタリーを作る過程でよくあることですが、撮る前から先に結論まで決めてしまって、その結論に到達するための映像を選び、構成を持って撮影に行く場合があります。私はそれを台本至上主義と読んでいます。しかし、そのやり方では目の前の現実と、自分の作ろうとしているものに必ず食い違いが生じます。それだと本末転倒なので、まずは目の前の現実をよく見ることから始めます。リサーチもせずに、行き当たりばったりでカメラを廻し、カメラを廻した結果何が見えたのか、という順番で映画を作ります。つまり自分が観察した結果を映画にするということです。もうひとつは、観客にもよく観察してもらうということです。そのためにテロップや音楽、ナレーションを使わずに、できるだけ誘導をしないようにしています。観客が自分から情報を取りにいく態度になってほしいので、あえて不親切な構成にしています。
Q: そもそもなぜ観察映画というスタイルを実践しようと思ったのですか?
SK: 観察映画というのは、もともとは私が一から作ったものではなく、英語ではオブザベーショナルな映画と言われています。いわゆるダイレクトシネマという運動が60年代アメリカに起きて、フレデリック・ワイズマンやメイスルズ兄弟、D・A・ペネベイカーのように、現実にカメラを向け、直接的に世界を描くという手法をとる作家が生まれてきました。私はそこにドキュメンタリーの面白さの根本があるような気がしているので、その伝統をもう一度再定義したいと思っています。ダイレクトシネマの運動、オブザベーショナルなフィルムというのは、すごく古臭いイメージがあり、既に飽きられているものかもしれませんが、自分もそういう活動をしようと思って始めたのが観察映画シリーズです。
Q: 目の前の現実から見えてくる面白さとはなんでしょうか?
SK: 私たちは普段、目の前の現実をよく見ていません。見ているようで、あらゆることを見過ごしてしまっています。しかしカメラを通じ観察しはじめると、今まで誰も見ずに素通りしてしまっていた当たり前の光景が、急に当然でなくなってくるのです。だから編集というプロセスにとても意味が出てきます。編集の時には何度も繰り返し同じシーンを見ることができるので、自分が全然予期してないことが映り込んでいたり、そこから生まれる発見があります。
(採録・構成:岡達也)
インタビュアー:岡達也 、鈴木規子
写真撮影:宮田真理子/ビデオ撮影:仲田亮/2013-10-12