エラ・プリーセ 監督インタビュー
監督とファシリテーターの狭間で
Q:「辛い経験」は、語り合う場を設けて初めて、「伝えたい」という感情になるものだと感じました。どのようにして、この映画制作に至ったのでしょうか?
EP: 初めて、カンボジアを訪れたのは2000年です。ポル・ポト没後2年の当時、私は人々が通りで遊ぶ様子を収めた、ドキュメンタリー映画を撮影しました。ゲームの事を聞いているのに、人々はなぜかポル・ポトの話をしました。通りでゲームをすることは、ポル・ポト独裁政権からの解放感の表れであり、あまりにも長く続いた沈黙のために、人々の間には「語らなければ」という切迫した気持ちがあったのだと思います。
その後2008年に、ドイツとカンボジアのNGOが共同で立ち上げたのがこのプロジェクトです。農村の人たちにも、自分たちの体験を共有し伝えたいという気持ちがたかまり、映画を撮ろうということになったのです。野外上映などで地元の人たちに見せるというのがひとつの目的で、クメール・ルージュ時代の辛い思い出を抑圧せず、語ることによって対処できるようにしていこうという意図もありました。
Q: 村人や共同監督のヌ・ヴァさんと協力して作られていることが作品から見えますが、どのような手法でこの作品を作ったのですか?
EP: 私はカンボジア人でもないし、映画を村人たちと一緒に作りたいと考えて、参加型のプロジェクトを提案しました。主役である村人たちと、何を主題にするのかを話し合い、いい映画にするためにはどうすればよいかも一緒に考えるということです。村人たちに参加してもらうことが、まず重要でした。また、このプロジェクトで興味深かったのは、取材対象である人たちが表現方法を選べたことです。
Q: 観ていて、作品がひとりでに歩き出したような印象を受けました。動き出した作品は監督の意図したところへ帰着したのでしょうか?
EP: この映画制作がどこへ導かれるのか、結末がどうなるのか分からない、オープンな制作プロセスをとったらいいんじゃないか、という考えを持って私は村に入り、制作を進めていきました。村人たちは、彼らの経験を、もしかしたらおとぎ話のように語るかもしれない、あるいはアニメーションを作るかもしれない、カンボジアは、演劇や舞踊が伝統として根づいている所なので、そういう表現方法を望むかもしれない、私たちはそのように想像していました。何がそこで実際に起きたのかを、そのまま再現してもらおうとはまったく考えていませんでした。私は、監督としてある権威を持って指示するというやり方を放棄し、あくまでオープン・プロセスにこだわり、何がその場で出てくるかを重視したのです。
Q: それは、監督としてというよりファシリテーターのようなかたちでということですか?
EP: そうですね、私の立場はファシリテーターと監督の中間にあったと思います。部分的には、村人のアイディアに重きをおいたシーンの撮影に関しては、ファシリテーターであり、インタビューのシーンに関しては監督でした。また、どう編集していくかというのは最終的に監督のものです。実は、村人たちは、あまり編集には興味を示さなかったのですが、彼らの意見も参考にしたかったので、最初の90分バージョンのポストプロダクションは、全部カンボジア国内でやりました。それを少し縮め、音の部分に修正を加え、ナレーションを英語にしたのが、今回上映したインターナショナルバージョンです。
(採録・構成:野上貴)
インタビュアー:野上貴、宇野由希子/通訳:臼居直行
写真撮影:大宮佳之/ビデオ撮影:大宮佳之/2013-10-13