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YIDFF 2011 インターナショナル・コンペティション
阿仆大(アプダ)
和淵(ホー・ユェン) 監督インタビュー

フィールドワークから“シネマトグラフ”へ


Q: なぜ阿仆大と死にゆく父を撮影しようと思ったのですか?

HY: 阿仆大の父は雲南地方のナシ族の著名な歌い手でした。私はこの地の音楽に興味を持っており、当初の企画では芸術家としての彼のオーラを生活に添いながら撮影したいと思っていたのですが、既に85歳の高齢で身体の自由も利かなくなってきている状態でした。しかし、撮影準備の過程で不思議な存在感を持つ息子の阿仆大を知るようになり、彼を通して父との関係性を描く方がおもしろいと思ったのです。最初は三脚を使わずに撮影していましたが、次第に画の中の彼らの自然な動きをそのまま見せたいと思い始め、固定ショットで撮るようになりました。日々父を介護する阿仆大にカメラを向けたのです。

Q: 映像人類学の研究をされていたそうですね。

HY: 私はもともと大学で映画の勉強をしたいと思っていましたが、雲南では映画を学べる学校は雲南大学の映像人類学科しかなかったのです。ここで民族学を学んだことが阿仆大の父に出会う契機にもなるのですが、中国の少数民族についての研究に励んでいるうちに、自分の出身地である雲南省に古くから伝わる民族音楽の素晴らしさに気付き、さらに音楽に限らず他の民族にもそれぞれ特色があると実感し始めました。しかし映像人類学を研究することに対する違和感もあったのです。私は文学や芸術のように、映画によって民族の精神性や内在する感情を表現したいと思っていましたが、映像人類学のアプローチは、どうしても服飾や工芸品、道具など物質的な資料を優先しがちです。フィールドワークの際、対象との具体的な関係性が生じるにもかかわらず、アンケートや定型的なインタビューで調査することにも違和感を覚えました。映像人類学は映像によって記録を残すことが目的ですが、私はなによりも映画が好きで、映画的手法によって撮影した映像を用いて、彼らの精神世界を描くことに可能性を感じていたのです。例えば、『阿仆大』では先述したように動きの少ない画なので、音によって映像を補う、という構成にしました。敬愛するロベール・ブレッソンは『シネマトグラフ覚書』において、音と映像の自立的併存が大きな効果をもたらすことについて述べています。その言葉に倣えば、介護のために自分の仕事に手をつけられず愚痴をこぼしながらも死にゆく父を看病し、その死を受け入れ乗り越えていく阿仆大に内在する感情を表現しえたのではないかと思っています。

Q: 映画では、ベッドがよく映されます。

HY: 二人が生活を共にするあの部屋こそが、やはり彼らに内在する感情が最もよく表現される場所だったのでしょう。ベッドに寝ている阿仆大の父を、低めの位置からややクロースアップで捉えたシーンがあるのですが、そこには確かに父と阿仆大との言葉にならない精神の交流があるように見えます。実は、阿仆大のお父さんの葬式も撮影したのですが、編集の時に見直してみると、お葬式という「儀式」が彼らの内面からは離れた外在的なものに感じられたため、本編には使用しませんでした。彼らの親子関係を映画的手法を駆使して描くことで、生活の様子だけではなく、「生きる」ことのなかで彼らが抱く感情をも表したいと思いました。そこには人間として誰もが持っている共通点もあるだろうし、彼ら独自の部分もあると思うのです。

(採録・構成:岩井信行)

インタビュアー:岩井信行、渡辺一孝/通訳:秋山珠子
写真撮影:広瀬志織/ビデオ撮影:市川恵里/2011-10-07