毛晨雨(マオ・チェンユ) 監督インタビュー
私が映画を撮るということ
Q: 監督さんが、大きな手術をなさった後の作品ということですが、この作品にどのような思いがありますか?
MC: 現在自分が生きているということ、命の価値というものを強調して表現しています。私が今生きているということ自体、重大な出来事なんです。
Q: 文学的要素が強い映画ですよね?
MC: この映画における、文学的表現の仕方は特別なものです。以前も、このような表現方法がなかったというわけではないですが。私は大病をしたので、この作品は私自身が生きていることの記念という性格を持っています。たとえば、自分が籠の中の雀だとしたら、外に飛び立って映画を撮ることもできませんよね。この映画は、故郷というものを再認識する過程でもありました。絵についても、自分で描いたものです。言葉で言えない自分の気持ちや、見えないものを絵に描いて表現しました。
Q: 稲を通した固定カメラで、村を撮るシーンが多いですね?
MC: 私が撮る映画は、稲に関連したシリーズものなんです。今まで9作品ありますが、「稲電影」(電影は映画という意味)と名づけました。その概念は、稲文化の背景を強調したいということです。第1作目の『Human, Ghost, God(陰陽界)』という映画の中にも、多くの稲のシーンを入れました。実際、私は稲が本当に好きなんです。その稲というのは、美という概念とは関係ありません。稲の中から見ることで、村の風景は、よりいっそう深く表現できると考えています。固定カメラについては、私は無駄な動きが好きではないし、村の生活のリズムはとても緩やかで、固定したほうが雰囲気も出るので、多く使っています。
Q: 監督は、劇映画とドキュメンタリー映画を、同時進行のように撮られていますね? それには、どのような考えがあるのですか?
MC: 現在まで、劇映画はすべて私の妻の故郷で撮影しました。洞庭湖の上流です。劇映画というのは、はっきりしたイメージを表現し易く、そこには多くの可能性が存在していると思います。一方で、ドキュメンタリー映画は、その地域のことを深く理解し、そこに住む人の目つきやため息など、すべてを理解していないと撮れないものです。たとえば、こんな印象的なシーンがあります。小川紳介監督の『1000年刻みの日時計 ― 牧野村物語』といえば、トンボが老人の背中にとまっているシーンですね。どうしてトンボは、この老人の背中にとまっているのでしょう。それは、老人が長年の農作業によって、田んぼの一部と化したからなんです。トンボは、その老人を固定したイメージ、つまり石と同じように捉えたのですね。ですから、私にとってドキュメンタリー映画は、その土地の人の習慣などを理解できていない状態で撮れるものではないんです。表面的な理解ではできません。
Q: 次回作についてお聞かせください。
MC: 稲シリーズを、撮り続けたいと思います。10年も20年も続くかもしれません。その中で、中国の農村の現状を反映した劇映画を撮ることもあるでしょう。というのは、現状をとことん表現したいからです。そのためには、事実だけを直接伝えるのではなく、作り手の創作を加えた劇映画も有効な方法だと思います。
(採録・構成:鈴木大樹)
インタビュアー:鈴木大樹、解明明/通訳:解明明
写真撮影:森藤里子/ビデオ撮影:知久紘子/2009-10-11