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YIDFF 2007 YIDFFネットワーク企画上映
ミリキタニの猫
マサ・ヨシカワ(製作)インタビュー

ピースキャッツが微笑んで


Q: マサさんはどういうきっかけで、この映画のプロデュースをすることに?

MY: プロデュースというのは、結果的に後から付いてきたのです。この映画にかかわる一番最初のきっかけを話しますと、映画を作る人たちのセミナーのようなものがニューヨークであって、僕はその話を聞きに行っていたのですが、その帰りのエレベーターの中で、「あなたは日本人? 日本語がわかりますか? ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけれども……」と声をかけてきたのが、監督のリンダだったのです。それはリンダがジミー(ミリキタニ)に路上でばったり出会った約1カ月後のことで、その時リンダは既に彼から絵やメモをもらっていて、その日本語を訳してくれる人を探していた、ということです。それが最初のきっかけで、その後雪だるま式にかかわっていき、後半ではカメラも廻し、リンダと一緒にプロデューサーという形になったのだと思います。

Q: 作品のために作られたドキュメンタリー作品という印象がなかったのですが……。

MY: この作品は企画ありきではなく、先に映像を撮ったのありきで、一番最初の映像もジミーのリクエストで撮られていて、その後もあまりにも予想外の展開で、9.11を含めて、予定していたことをできるという状況ではありませんでした。ある意味流れに任せて撮って、たまった200時間ある映像を、ある一区切りの時点になってまとめたという形なので、作品の自然さというものはそこから出てきたのではないかと思います。

Q: ドキュメンタリー映画における製作の役割とは?

MY: わかりません。というのは、この映画は本当に個人的に撮った作品で、スタッフもリンダと僕がいて、編集の時に編集者の出口さんがいるくらいだったから、何でもやったわけです。ただ、そのひとつの重要な役割としては、お金を工面することです。アメリカには財団や基金というものがいっぱいあって、それらがドキュメンタリーや社会的な問題を扱ったものに対して、多くの助成金を出しています。しかしアメリカはドキュメンタリーを作っている数が、日本よりとても多いので、競争率はすごく高いです。特にドキュメンタリーというのは、miniDVカメラの存在で誰もが撮れるようになって、その数が格段に増えました。それで助成金の応募の準備が結構ありまして、今回も同じ基金に応募3度目でやっと通った、というようなこともありました。だから撮影したのは2001年から2002年の半ばですが、完成したのは2006年の春だった、というのは、その資金繰りにやっぱり時間がかかってしまったんですね。

Q: マサさんから見て、やはりジミーさんは変わっていった?

MY: 変わりましたね。映画でも冒頭と終わりを見たら、顔がまったく変わってます。恐い厳しい顔だったのが、すごく柔らかくなって、映画の終わりにも柔らかくなって、今のジミーの顔はもっと柔らかくなってます。姿勢もすごく変わりましたしね。今のジミーはいろいろハッピーなことが多くあって、この映画によってみんなが彼のことを知ったり、彼の言っていることを聞いたりして、彼はそのことをすごく喜んでいますし、リンダにもすごく感謝してるようです。発言に関しても、日系人がどうしたとか、政府がどうこうという怒るような発言は減っていって、もっと別の、昔のいろんな話をよくしますけどね。

(採録・構成:遊佐蓉子)

インタビュアー:遊佐蓉子
写真撮影:遊佐蓉子/ビデオ撮影:遊佐蓉子/2007-09-12 東京にて