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YIDFF 2023 日本プログラム

絶唱浪曲ストーリー
川上アチカ 監督インタビュー

聞き手:佐藤寛朗

師匠と弟子の関係にわけ入る

佐藤寛朗(以下、佐藤):この作品は、浪曲という古典芸能にあるセッション感と、ドキュメンタリー撮影のセッション感、監督と取材対象者との距離感が、3つ巴でガチっとはまっていた感じがしました。皆さんが「アチカット」と呼ぶ独特なカメラ位置も、関係性の濃さの表れに思えて苦になりませんでしたし、師匠と弟子などの人間関係に監督がどう分け入ってカメラを回していたかを知ることが、この作品を読み解く鍵のような気がしました。

川上アチカ(以下、川上):この映画の距離感は、浪曲の世界に入れてもらうために自分に何ができるかを考えた、ということに尽きると思います。港家小柳師匠の世代の方々は、カメラの前で自分をどう見せるかのガードが低く、そのままの姿でいてくださるところもあって、私も小そめさんと同じ弟子のひとりといった感じで見てもらえれば、小そめさんと小柳師匠と玉川祐子師匠の関係の中に入っていけるんじゃないかと思って、私もまた同じように、お会いする時には三つ指ついて、土下座をしてご挨拶をすることを心がけました。楽屋でも、小そめさんや他の若手のお弟子さんたちの動きを模倣する感じで、目障りにならないところにいるようにしました。カメラを持った時に、師匠たちの隣にいても、彼女たちがしんどくならないように距離感を作ったのです。何かを見せたいからカメラが寄るのではなく、そこに共にある、というカメラワークなのかもしれません。ものすごく淡い距離感の。

佐藤:確かに「共にいる」感じですよね。そもそも浪曲を撮ろうと思ったきっかけは何だったのですか。

川上:発端は、前作の『港家小柳IN-TUNE』(2015)の話になるんですけど、小柳師匠にはじめてお会いした時、たった20人ぐらいのお客さんを相手に浪曲を聞かせている状態に驚いてしまって、とにかく小柳師匠の舞台を一席撮ってそれを公開し、生で見にくるお客さんを増やしたい思いから始まったんです。その流れでDOMMUNEというインターネット放送の番組を作らせてもらったりするうちに、小柳師匠が若い人達の前で浪曲をやったり、歌手の友川カズキさんと対バンをやったりするような機会が増えた。小柳師匠にしてみれば、この子はお客さんを連れてきてくれる、という信頼をまずいただけたかもしれないですね。

 しかし、小柳師匠の芸は「撮ろう」と思って撮れるものでは無かったというか。生身の芸って撮ろうとしても、逃げていってしまうような気がして、私が見たものはこんなものじゃなかったという思いがある中で、じゃあ稽古を撮りに行けば、もう少し小柳師匠の浪曲に近づけるんじゃないかと思って、小そめさんの稽古に一緒に行かせてくださいとお願いして、赤羽の祐子師匠のご自宅に通うようになったんですね。

佐藤:監督の言葉で言えば、小柳師匠はどのあたりがすごいのですか。

川上:あくまで私個人の感想ですが、ひとことで言うと「浪曲そのもの」になれる方だなと。小柳師匠の身体を通して物語が語られると、魔法のように情景が立ち上がって、気づけば、時代も空間も超えて自分自身がその場面に立っている。雨や雪を肌で感じる気さえする。もちろんそれには、浪曲師と共に三味線で丁々発止のやり取りを繰り広げる曲師の師匠方の表現力も大きいとは思います。しかし、それだけの名人であるのに、寄せ読みの浪曲師ではなく、旅芸人としての生活が長かった小柳師匠の記録はほとんど存在しない。誰かが、ひとつでも多く、記録を残しておかねばならないのではないかと思いました。

 でも、やっぱりまだ、どこかで逃げていたんです。がっぷり四つに彼女の人生を引き受ける覚悟は生半可ではなくて、徐々に徐々に出てきた感じでした。実は2015年に私も体調を崩したんですよ。3か月寝たきりになって、そこから復活できたので、もう一度もらった命だし捧げればいいかと思って、今までとは姿勢をガラッと変えたんですよ。私が物語を語るんじゃなくて、向こう側にある物語を私というトンネルを通して、どうやったら素直に出せるか、という模索が始まったんです。

佐藤:出会いの順番で言うと、まず小柳師匠があって、その次に弟子の小そめさんがあるってことですね。監督と小そめさんとの関係性というのは、歳の近いところもあり、小柳師匠とは違う距離感で描かれていると思いました。どう関係を作っていったのですか。

川上:小柳師匠の演目をひとつでも多く記録に残すことは、弟子の小そめさんにとっても、実はやって欲しいことだったと思います。私が何か聞きたいのかを彼女なりに想像して、小柳師匠とお茶を飲みながら、祐子師匠もいる中で、普段は口下手な小柳師匠からどうすれば過去の話を引き出せるのかを、一緒にトライしてくれていたんですね。その後、銭湯好きだと知ったので、お風呂に誘って一緒に行ったりしました。私と彼女とは、立場は違っても小柳師匠の浪曲を知りたいという気持ちは共通していて、関係が自然に深まっていった気がします。

浪曲、という世界

佐藤:基本的には師匠から弟子への芸の継承を撮るつもりで始めたと思うのですが、途中からステージを降りたとか、お家で臥せている姿とか、小柳師匠の病状の進行も記録せざるを得ない状況になりました。どういう思いでプロジェクトを進めていったのですか。

川上:病床のシーンを撮った日は、小柳師匠の体の中に浪曲の物語がまだたくさんあるのに、何も残せないまま終わってしまう、と絶望していました。小そめさんも、恐らく全く同じショックを受けていて、諦めきれずに「浅草まで出て来るのが難しくても(小柳師匠の自宅のある)犬山での公演だったら三味線の人に来てもらってもう一回やれるかな」とか話していて。でも現実には、そんなことは難しい。

 これは後々に思ったことですが、小柳師匠が木馬亭から去る寂しさや、彼女の浪曲が聞けなくなる寂しさはもちろんあるのですが、でも浪曲というコミュニティーの成長にとっては、それは必然な展開なのかもしれないとも思いました。尊敬する先輩がいれば、その人を頼ってしまう構図はどの世界にもあるわけで、その人が不在になった時、初めて穴を埋めていくために、他の人が覚悟を決めて立ち上がる。そこからまた、新しい物語が生まれ私に訴えてくる。だから、カメラの前の状況に抗うことなく、目の前のことに素直にカメラを向けていました。

佐藤:僕、あのシーンが好きなんです。病室でカセットテープが出てきて、小そめさんに聞かせるうちに、小柳師匠あれこそが芸、っていう感じがしたんですよね。

川上:私も好きです。ラジカセからかかる小柳師匠の浪曲が部屋中に鳴り響いて、窓からは白い光が差してくる。神々しいような特別な時間がきたことが撮影していてわかるんですよ。小そめさんも、まさかカセットテープから小柳師匠の声が出てくるとは思わないから、興奮してしまって。あの時、私は、今ベッドに寝ているのが小柳師匠の本名である岩橋利江さんなのか、港家小柳師匠なのかに集中していて、もし岩橋利江さんだったら顔を映さない、と思っていたんで、それで「お染め久松か」と言った時に、そこにいるのは小柳師匠であると確信したので初めて顔を写すんですけど、その状況が私が以前に舞踏家の大野一雄先生の最晩年を撮らせていただいていた時の経験に近かったというか。

 大野先生は、恐らくベッドの中でもずっと踊っていらっしゃったと思うのですが、私のような素人がダンスだと認識できる状態で踊りが立ち上がってくるのは、ほんの一瞬なんですよね。その一瞬が、同じように小柳師匠の手の動きに起きていたので、私には既視感があって、ある種の冷静さを与えてくれたのかもしれません。

 浪曲って、メソッドも教科書もないんで、物語が、語り部の身体から身体に、師匠から弟子へ写し取られていくんですよね。小柳師匠の身体に棲む浪曲(の演目)という生き物が、手の動きから布団の波へ、浪速節の波動として蠢いている。「ああ、絶唱しているな」と思って。浪曲は通常30分間ぐらいで一席なんですけど、小柳師匠はどこで呼吸を取っているか分からないぐらい、息継ぎの名人だったんですね。だから、手の動きを見た時、ダンスのように呼吸が読める、と思ったんです。ここで息を抜くんだとか、もし自分が弟子だったらものすごい勉強になるんじゃないかと感じました。あれは多分小そめさんに見せてくれた最後の稽古であり、舞台だったんじゃないかなと思っています。

佐藤:その後、ひとりになった小そめさんの名披露目の舞台が、クライマックス的に描かれますが、あのシーンは1日のドキュメントとしての完成度が高く、ある種、監督も決死の覚悟で撮られたことが伝わってきました。あれはひとりで撮影されたのですか?

川上:ひとりです。だから、舞台の正面の映像がないんです。正面の映像がないのは、今回は小柳師匠がいた位置に小そめさんが立ち、小そめさんが前座の時に立っていた舞台の幕を開け閉めする袖の位置に別の若手が立つことになるから、そこでの交代劇も起きるし祐子師匠と小そめさんの関係性というのもあの場所に立つとよくわかるから。あえて正面から行かなかったんです。

佐藤:はじめは小柳師匠の記録として撮っていたものが、どこかで浪曲の世界そのものの記録へと広がっていった感じがしました。監督はどう考え撮影していましたか。

川上:自分では正直よく分からないです。浪曲の世界を、あまり俯瞰的に捉えようとは思っていなかったから。でも祐子師匠と小そめさんの、団地の小さな部屋から見えてくる世界はたくさんありますよね。浪曲って、門付芸から始まったと言われる芸能で、弱いものの味方になるストーリーも多い。完成した映画を観た時に、まるで浪曲の人情話そのもののようだなと思いました。

 浪曲という芸事の世界は、血のつながってない人同士が、お兄さんお姉さんって呼び合う。それがうらやましいなと思うこともありました。目指すものが一緒であれば、擬似家族のような関係性にさえなれることに感動したし、その大きな繋がりはあるとは思います。浪曲界には「弟子をお腹空かせては帰さない」という掟があって、若手はみんな太るんです(笑)。前座や付き人では稼げないかもしれないけど、ご飯だけは師匠だけが守る。そんな生活の入った付き合い方を普段からしているので、「川上さんも食べていきなさい」と自分を内側に入れてくれる温かさが、私にとってもありがたかったですね。小そめさんに説教をしていたかと思ったら、クルっと振り向いて「あんたにも言ってるよ」と言われるし、祐子師匠には「梅干しを持って帰れ」とか「おまんじゅうを持って帰れ」とか、私も本当に孫のひとりみたいな感じで扱ってくださいました。

佐藤:言われてみれば、小柳師匠も祐子師匠も、質素というか慎ましい生活をしていますよね。そういう団地の空間をとらえているのも、この映画の魅力だと思います。

川上:本当は祐子師匠が「ここには何にもねえんだ」って言った場面を入れたかったんですけどね。手作りのサンドイッチをみんなに食べさせて、紅茶を入れて飲ませようとするけど「紅茶のカップはみんな娘に持っていかせちゃったから、あるのはガラクタばっかりだ」とか言うんです。そこには、何もなくても愛があるなと。猫に刺身を食べさせるシーンがあるんですけど、あれも猫のために刺身を買ってきて、自分は食べないんです。餌をあげながら「お婆さんだから小さく切らないと噛み切れないんだ」って言っているのは、あれ猫の話で。そこまで家族の範囲が広いのか! と思って。あの場面を撮った時に、この世界が撮れた、と思って。小そめさんの名披露目の時には、なんか終われないなとモヤモヤしていた気持ちがここでストンと落ちた感じがして、最後の撮影になりました。

編集というセッション

佐藤:作りの話に行きたいんですけども、編集で途方に暮れるなか、ある種の方向性でまとめようと思ったきっかけは、2021年に参加した「ドキュメンタリー道場」ですか?

川上:そうですね。当初はもっと群像劇で描いていたんですよ。国本武春師匠という浪曲のスターが50代で急に亡くなられた時に、その大きな穴をどう埋めていくかということで、当時、中堅だった玉川奈々福師匠がものすごい努力されて、そんな奈々福師匠を国本武春師匠の三味線のパートナーとして曲師を務めていらした名人の沢村豊子師匠がその音色で支え、その弟子の沢村(現・広沢)美舟さんは豊子師匠を支えながら、なんとか一人前になろうと奮闘する。その話を通して、浪曲界というコミュニティにとってのもうひとつの不在を描くというラインを撮影では追っていたのですが、編集の段階で1本、筋を通して映画をドライブさせていくというところで、結果として、そちらは落とした方がより素直に伝わるだろうという選択になりました。

 それで良い、と気づけたのが「ドキュメンタリー道場」でした。でも道場そのものは、答えは教えてくれるわけではないんです。主催の藤岡朝子さんがメンターになる方々に「答えを教えるのではなく、作り手の中にある答えを引き出して欲しい」というようなことをおっしゃったと聞きました。私が納得できるものを、メンターや他の参加者の仲間の力を借りて引き出してもらった感じです。

 シーンを落とす、落とさないのせめぎ合いに関しては、もうひとつ、ユーロライブで開催されていた浪曲映画祭というきっかけがあって、主催者のおひとりであるユーロスペースの堀越(謙三)さんにワークインプログレスの状態のものを公開して話すという機会をいただいて3、40分の短いバージョンを作りました。その作業を通して自分が残したいものがはっきりと見えたんです。自分にとって絶対に外せない要素に忠実にやっていく。そのプロセスが今回の編集に気づきをくれたと思います。

佐藤:作品を完成させるまでのセッションは、どんな感じだったのですか。

川上:2時間のバージョンを私が作ったところで、「ドキュメンタリー道場」のメンターのおひとりであった編集の秦岳志さんが入ってくださって、まず骨組みからやりますってことで、できたものが送られてきたんですけど、私、驚愕しちゃって。「私が大事にしていたものがひとつも入っていない!」ってびっくりして、慌ててその場で「ダメです。秦さん、全然私の大事に思うところが入っていません」みたいなメールを送ったんです。秦さんはその時スーパーで買い物をしていたらしいんですが、私の焦りのメールに、すぐに「分かっています。想定内です」と返事をくださって。秦さんにとっては、小そめさんがデビューしていくまでの流れを骨組みとして作っておいて、それは筋肉のないスカスカな骨だけの状態なので、そこから、私とディスカッションして何が足りないのかを筋肉として戻していく作業をされる予定だったそうなんですよ。

佐藤:へえ、そういうやり方をするんですね。

川上:いつもやっていらっしゃるかは分からないですけど。私は誰かと一緒に作業すること自体が初めてだから、不安しかないんですよ。秦さんはベテランだし、どこまで自分の意見が言えるのかなとか、どんなふうに変わっちゃうのかなとか。そういう不安の中で、秦さんの意図も知らずに骨組みだけを見てショックを受けたわけです。そこから秦さんはひとつひとつのシーンを、ものすごくていねいに検証してくださって、私も必要のないエゴや作品をコントロールしようとする意識を捨てよう思って、試せることは全部試して、映画にとってベストなストーリーをみつけ出すことを、本当に大事にやってもらったんですね。もらったものをある程度期間を空けて見直して、また戻ってセッションするということを、結局1年近くやりました。

佐藤:「ドキュメンタリー道場」をきっかけに、今までひとりで作ってきたものが、人の力も借りて仕上がった、という点についてはどう考えますか。

川上:欲を言えば、撮影の段階から撮影部も録音部もいて、というのがベストですが、今回の作品はバジェットもなかったし、小柳師匠は年齢的にももう88歳でしたから、待っている時間はなく、ひとりで行くしかないところでスタートを切っていましたからね。他の方々が加わることで、自分の映画が「みんなの映画」になっていく感覚が新鮮で、嬉しくて、喜びでもありました。

佐藤:最後にまた、カメラワークの話に戻るんですけど、皆さんに「あの距離感は何だ」とかアチカットとか言われていますが、もちろん、状況に応じて位置を考えているわけで。距離感が独特と言われるのは、ご本人はなんの表れだと思っていますか。

川上:アチカムとかね(笑)。例えば小そめさんのインタビューは、実際にあのくらいの距離で喋っていたのだから、観ている人にとっても、友達と隣同士座って喋っているみたいな感覚や、自分が話しかけられるような感じがあってもいいじゃないか、と思って。自分としては、撮るということは意識しているけれど、いわゆるセオリーの画角とかそういうことは考えていない。今回に関しては、「共にある」とか「共にそばにいる」という、境界線の淡さみたいなものが、やっぱりひとつのポイントになっていたのではないでしょうか。もちろん師匠と弟子とか、監督と取材対象者とか、便宜を図って線を引いていくこともあるんですけど、じゃあ実際に本当のところ、境界ってあるの? と思った時に、実は無いんじゃないかなと思っているんですよね。もちろんね、相容れない人とかもいるわけですけど。結局その人も、同じこの社会の中に生きているわけですしね。

佐藤:なるほど、ボーダーレスな世界を意識した距離感であると。今日はどうもありがとうございました。

採録・構成:佐藤寛朗

写真・ビデオ:大下由美/2023-10-11

佐藤寛朗 Sato Hiroaki
ドキュメンタリーマガジン『neoneo』代表として、雑誌・Web記事の編集・執筆を担当するほか、2018年より始まった東京ドキュメンタリー映画祭のプログラマーもつとめる。普段の職業は、テレビのドキュメンタリー番組のディレクター。