『ニッツ・アイランド』
ギレム・コース 監督インタビュー
映画クルーが仮想世界に潜入
日下部克喜(以下、日下部):まずはじめに、この作品の中で、ギレム監督はどういった役割を担っていたのでしょうか。また、どのアバターを演じておられたのでしょうか。
ギレム・コース(以下、コース):女性のアバターを演じていました。ゲームの中では食べ物や水を確保しないと生き延びられないので、それらを調達することが私の役割でした。このゲームは、現実のシミュレーションに近いものがあり、様々な環境のなかで、身体を維持しなければなりません。全体で1000時間ほどゲームの中にいたのですが、そのうち撮影していたのは200時間ほどでした。それ以外の400から500時間は食べ物を探したり、薬を探したり、あるいは敵の襲来から身を守ったりしていました。この映画を撮るためには、まずこの空間で生き延びる必要があったのです。実際、ゲーム上では我々は何度も死んでいて、再度ログインするたびに、それぞれが全く別の場所に丸腰で放り出されるので、午後丸々かけてお互いを見つけ出し、撮影隊を作り直すという作業をしょっちゅうしていました。自分はゲーム上で300回ほど死んでいます。
日下部:撮影隊の皆さんは、同じ空間でモニターに向かって操作・撮影をしていたのですか。
コース:3か月間、3人だけで閉じこもって生活するということを2回しています。このゲームをしている間は常に死ぬかもしれないという危機的な状況にあるわけです。逆に言うと、このことがこのゲームの面白さにもなっていて、多くの人を惹きつける部分です。我々にとっては、この映画を作るうちに、だんだんこのゲームが持つ異常さがわかってきて、ますますその危険性に惹き込まれていきました。と同時に、死んでしまったら大変だ、という撮影を続ける上でのリスクも大きくなっていきました。
日下部:インタビューを行う人たちとは実際にアポイントを取って、インタビュー前までに関係性を構築していったのでしょうか。
コース:いいえ、基本的にゲームの中で会って人間関係を構築していくことしかしていません。最初にルネという登場人物に会い、親しくなって、そこからルネの友人を紹介してもって、というように人間関係を構築していきました。ゲームの中で親しくなった段階で、現実世界でも連絡を取り合うようになりました。
彼らは現実から切り離されたゲームの中で生きているわけで、ゲーム以外の方法でコンタクトを取ることは不可能ですし、それはやってはいけないことだと思います。
日下部:映画の中で格別の魅力を放つストーン牧師もそのようにして出会ったのですか。
コース:ストーン牧師も、友達の友達的な繋がりで出会うことができたひとりです。その意味では、ほかのカップルなどと同じような出会い方をしています。ゲームの外の世界、つまり彼の実人生のほうでも色んなことが起こって、ゲームを辞めたり、また復帰したりということがあって、結果としてそうしたことが映画に入り込んできて、我々が全く予想していなかった方向へと映画全体が動いていき、彼自身の存在が非常に重要になものになっていきました。
日下部:彼の存在によって、作品の方向性が変わっていったということでしょうか。
コース:ゲームの中で長い時間を過ごしてきたことに、一体どういう意味があるのだろうかと、あるときふと気づくことがあります。そのような波は多くの人に起こることなのですが、その中でも彼の存在が結果としてこの映画において非常に重要になったことは間違いありません。
最初に出会った時には、当然ながらみんなゲームの中の自分の役割を演じていて、ゲームの中の人物としてインタビューに答えてくれるわけですが、それがだんだん話の流れにのって、実生活とバーチャル世界との境界とは何かという話になっていきました。その過程で、実は自分は実人生でこういうことがあって……などの話が出てくるのは、自然な流れだったと思います。
一方で、実生活について話してくれているといっても、何を言われてもこちらにはその真偽を確認する手段がないので、そういうものとして受け止めていました。ですので、そこで人間関係を作ることができたのは、単純に信頼関係があったからだと思います。
日下部:映画や演劇では、作品内世界と観客のいる現実世界とを隔てる境界を「第4の壁」という言い方をしていますが、本作には仮想世界でアバターを演じる人々の背後に現実世界を垣間見ると同時に、さらにそれをスクリーンを通して我々観客自身が体感する、というようにさらに複雑なものがあるようにも見えました。その構成については、どのようにお考えだったのでしょうか。
コース:この映画には「第5の壁」があって、その壁に亀裂が入るか、あるいは倒れかして、現実が入り込んだりすることがたびたび起こります。こうした多重的な意識のあり方や感情についてどう定義づけるのかという言葉を、我々はまだ見つけていないと思うのですが、コンピュータの前に自分がいて、その自分がコンピュータの中の人物と出会って、自分もコンピュータの中の人物として相手とやりとりをする時に、そこに生まれてくる多重性というのは、いわゆる現実世界における人間関係で自分が役割を演じていることよりもさらに複雑なことがあるのではないかと思います。その中で、多層的な自分というのが、お互いに共鳴しあってこだまのようなことが起こり、現実よりもさらにリアルな深みが出てくるのではないかという気さえしています。
ゲームの中での演出
日下部:この作品には映画的なショットが随所にあって、そこにカメラワークが息づいていたと思うのですが、ゲームの仕様上、もとから鳥瞰やパンやティルトなどを入れることができたのでしょうか。
コース:まず、このプログラム自体の仕掛けとして、カメラ1台ではなく、最初から2、3台のカメラが使えるようになっていました。そうは言っても、実際ゲームの中の登場人物に合わせたカメラ位置となると、色んな限界がでてきます。その人物が生き延びなければ、そのカメラ位置もなくなるわけで、ゾンビに殺されないようにしたり、場合によっては寒いからここに居続けられないとか、病気にかかるかもしれないからそこから離れた方がいいという理由でカメラ位置を離れたりとか、ゲームの中で限定されることはしばしばありました。
一方で、登場人物から切り離された形、いわばドローンのようなことができるツールもありました。それをたびたび使うことがあったのですが、ただ、このツールは、一旦オフラインにならないと使えません。なぜなら、それは、ゲームから離れて全体を見るためのツールとして作られているものだからです。場合によっては、ゲームの中で登場人物同士で体験したことを再現するために、ドローンツールを使わなければならないことも時々ありました。
そうしたシーンでは、全て実際にアバターとしてゲームの中で体験したことに基づいて演出し直しています。こうしたことは、バーチャル世界の中で、カメラや写真の問題を考える体験にもなっています。こういう照明がほしいというときには、意図的にそのように仕向けたり、あるいは双眼鏡ツールを使うと、いわゆる望遠レンズと同じような効果が得られるとか、あるいはゲームの中の自動車を使っての移動、いわゆるトラベリングショットを演出することも試しています。それは、この作品に入る前から、バーチャル世界で、自分自身で何度か試したことがありました。
フィクション映画がドキュメンタリーなしでは存在し得なかったことと同じように、ビデオゲーム自体も、映画の映像言語がない限り存在し得ないと思います。自分たちがやりたかったことは、その両方の間に橋を掛けて、その橋を観客に渡ってもらうということでした。
現実、フィクション、仮想
日下部:ラストシーンで現実の実写映像を入れたことについて、どういった意図があったのでしょうか。あそこに写っている映像は誰が撮ったもので、どこの風景なのかということも教えていただけますか。
コース:あれは登場人物たちが実際に現実の世界で見ている窓の外の風景を使用しています。なぜかというと、この映画の中に没入してもらうと、観客も現実とバーチャル世界の区別がつかなくなるからです。そこで、あえて緊張感を緩和する意図でラストシーンに使用しました。
もうひとつは、ふたつの世界に橋を作るということが目的だったからです。登場人物たちを最終的にどのように描きたいのかと考えたときに、彼ら自身に実際に出てもらって匿名性を消し去るというやり方には、私たちは全く興味がありませんでした。一方で、コンピュータ画面というものは、その人の人生の別の世界が見える窓なわけですね。そういうことも考えたうえで、彼らが現実の人生で見ているものは何か、窓の外の世界を最後に入れることで、彼ら自身の匿名性を維持しながら、現実の彼らが見ている世界とゲームの世界を結びつけることができたのではないかと思っています。もちろん、それは観る人の主観と解釈によることだと思いますが。
日下部:最後の映像を見たときに、現実の世界の映像なのに、どこかしら加工されたものというか、それすらもバーチャルなものとして見えてしまう瞬間があったように思いました。
コース:まさにそのとおりだと思います。現実とは何かと考えたとき、私たちにとってこの生きている現実とは、不規則性にまつわる問題なのかもしれません。つまり、生きているときには、想定していなかったことが必ず起こってくるというのが我々の現実の人生だということです。
ゲームの中でバグが起きたり、現実の世界で子どもが泣いているというのが画面を通して聞こえてきてしまうことによって、思いがけずフィクション世界が壊れてしまう。フィクションの世界が壊れたときにはじめて、現実とは何かということが浮かび上がってくるのだと思います。
しかも今日の世界においては、例えばAIを使えば、もっと現実と見分けがつかない映像が作れるかもしれない。ですから現実とは何かということは、今日の世界では非常に大きな問題であり、より私たちを戸惑わせるものになってきていると思います。
日下部:いま仰ったように、この先、技術が発達していくことによって、現実と仮想の境目はさらに崩れていくことと思いますが、そこで監督はそうした問題にどのようにアプローチしていくのか、この先の展望があればお聞かせいただけますか。
コース:今、シリーズもののプロジェクトの制作をすでに始めています。詳細はまだ言えないのですが、内容は、全く別の種類のビデオゲームの世界で、参加者が現実の世界をゲーム空間に再現していくというゲームなのです。我々は俳優を1人雇って、その俳優にゲームに参加してもらう。そのゲームの世界にはまだ俳優という職業の人はいない、つまり“演じる”ということが存在しない世界で、俳優という職業をいかに作り出していけるのかを実験する作品の制作にすでに入っています。これはシリーズものとして放映する予定です。
採録・構成:日下部克喜
写真:楠瀬かおり/ビデオ:大下由美/通訳:藤原敏史/2023-10-09
日下部克喜 Kusakabe Katsuyoshi
山形県寒河江市生まれ。山形国際ドキュメンタリー映画祭山形事務局元事務局長。大学卒業後、映画館勤務、自主上映活動を経て、2007〜2019年まで映画祭事務局にて運営に従事。現在は高齢者福祉に携わりながら、『キネマ旬報』ほか各誌に映画批評やコラムを寄稿するなど、文筆活動を行っている。