舩橋淳 監督インタビュー
フタバを見つめ続ける決意
Q: 震災直後からカメラを廻していますが、なぜ双葉町の方々にカメラを向けようと、思い立ったのでしょうか?
FA: 私自身の被災は、3.11の震災が起きたことで、予定していた映画制作が1つなくなったことです。事実上失業し、精魂こめて作り上げようとしていた作品が、突如なくなったことにショックを受けていました。それと同時に、国内外の福島原発事故に関する情報格差に、フラストレーションを非常に強く感じていました。そして政府が福島第一原発の事故を最小化しようとしているのでは、と懐疑心を抱きはじめていたのです。そんな時に、福島第一原発の立地町村である双葉町が、どの町村よりも遠くの地である福島県外の250キロ先に避難を決めていたことを知りました。それは私自身の「気づき」だったのです。ギリギリの距離ではなく、安全を第一に県内にこだわらず、より遠くへと避難を考えた双葉町にとても共感し、とりあえずその町の人々に話を聞きに行こうと思ったのが、最初です。
そして、取材を重ねることで、福島第一原発の電気は、首都圏で使われる電気であり東京に住んでいる僕自身が使っている電気だということを知りました。取材は1人で行なっていて自宅から電車で避難所に毎日通い、その中でも僕自身は電気を使い続けていましたが、その自分の日常に違和感を抱いたのです。なぜならば、電気を生産する側であった被災者である町民の方々は避難を余儀なくされ、住環境を奪い取られているのに、当の使用者である自分が、家もあり日常を過ごしていることは不公平だと思ったからです。その不公平さの理由がわかるまで、電気を使い続けてきた自分と、電気を生産し続けてきたフタバの人たちの会話を撮っていこうと思ったのが、このドキュメンタリーの始まりです。
Q: 双葉町の方々と共に時を過ごされることで、大きく感じたことは何でしょうか?
FA: 東京と福島間に時間軸上の平等さはない、と私は考えています。福島はこの事故が起きたことで、原発が立つ前の千年以上の時間をかけて築き上げられた歴史、風土、文化、コミュニティすべてを失い、事故後のイメージも失墜させられてしまいました。しかし、東京は事故が起きたことで、事故前の歴史はなくならないし、事故後にこれといった東京としての被害は受けていない、と私は考えます。原発は圧倒的な、東京と福島間の不平等条約だったのです。それに気づき、これは撮らなけばならないと思いました。福島の人たちは、お金では決して賠償できないものを失くしてしまった、という事実を示したいのです。
Q: 町民の人々越しにテレビ画面を映すといったショットをはじめ、あくまで双葉町の方々を中心として、カメラを廻しているように思いましたが、なぜでしょうか?
FA: 小さな“窓”を通して世界を描くこと、また定点観測で映画を撮ることが好きです。最初は福島に行かず、ずっと避難所だけでカメラを廻していこうと思っていました。双葉町の町民にとっての“外”の世界を“窓”を通して描くためにです。しかし一時帰宅の準備をする住民の姿を見たことで、自分の方針を曲げ一時帰宅に付いていくことを決めました。そして、一時帰宅した女性が念願の自分の家に帰っているのに、「もう帰ってこなくていいや」とつぶやいたときは、ドキュメンタリー映画監督として「なにかが撮れた」と思えたシーンでした。あのシーンは、“五感”を通して不条理が画面上に浮かび上がっていたと思います。
(採録・構成:平井萌菜)
インタビュアー:平井萌菜、桝谷頌子
写真撮影:楠瀬かおり/ビデオ撮影:楠瀬かおり/2015-10-13