ヴァルン・トリカー 監督インタビュー
玄関前の自由
Q: 監督は男性ですが、なぜ今回女性詩について撮ろうと思ったのでしょうか? また、女性詩と男性詩の違いを教えてください。
VT: ウルドゥー語において主流の詩は男性詩です。女性詩はその女性形ですが、実は女性詩の書き手の多くは男性でした。愛欲を謡ったことで、男性によって消費されてきた一面もあるのですが、それだけではないと思います。女性詩は100年以上にわたり排他的に扱われてきたため、今ではその多くが失われています。失われていくこと自体が問題なのではありません。人々がそのことを知らないことが問題なのです。この映画では、その失われた部分を描きたかったのです。そして現代のデリーを舞台にその世界を再構築しようと思いました。
Q: それでは、女性と詩の関係について、どう思われますか?
VT: そもそも詩とは、日常を見るレンズのようなものです。日常を十分に深く、近く、そして少し違った角度から見ることができれば、あなたが見るものは違った意味を持つようになるでしょう。この映画の中でいうと、女性たちがおしゃべりする玄関前の階段もこの例です。女性たちに映画を撮らせてくれと頼んだとき、「あなたの家の中で撮ってもいいですか」と聞くと、「男たちが怒るからだめよ」と彼女たちは言いました。「では、道路ではどうでしょう」と聞くと、「嫌よ、見知らぬ人々が集まってきてしまうじゃない」と言われました。「では、玄関ではどうでしょうか」と聞くとようやく出演してくれたのです。
家の中は自由ではなく、外の世界もまた、彼女たちのものではありません。玄関前の階段という極めて限られた空間が、彼女たちが唯一自由になれる場所でした。詩は、そのような自由な空間を表していて、女性にとって、特別なものであると思いました。書き手は男性であっても、女性詩の主役は女性です。
Q: 映画の後半では、ジンが登場しますが、詩の世界を再現するにあたって、なぜジンを登場させようと思ったのでしょうか。
VT: この映画では、女性詩の世界観を現代に蘇らせようとしたわけですが、その空間について話すとき、私は常に、多少の疑いを持っています。女性詩の作者が男性だということがやはり引っかかっていたからです。男性である私が本当に女性の世界へ入ることができるのか、とも疑っていました。そこへ、ジンが助けに現われました。
ジンは煙の精霊で、彼女たちはジンに手紙を書き、洞窟に祈りにやって来ます。私はジンの力を借りて、女性たちの世界へ導いてもらおうと思い、こっそりと何通かの手紙を読みました。そして彼女たち自身のことについて書いてある手紙がとても少ないことを知りました。そのかわりに、近所の人たちの分までも、祈っているのです。
彼女たちの望みを書いてあるはずの手紙には、女性の世界というものは見つかりませんでした。失われていたといってもいいかもしれません。しかし、最終的に私は、“希望”という概念に行き着きました。その希望というのは、必ずしも肯定的なものではなく、希望のない希望という類のものです。このことは、祈りや望みについて深く考えるきっかけになりました。今取り組んでいる別の作品では、要塞が隠している答えについて撮っていますが、それは“希望”についてと言い換えることができるかもしれません。
(採録・構成:原島愛子)
インタビュアー:原島愛子、狩野萌/通訳:吉富ポール
写真撮影:稲垣晴夏/ビデオ撮影:鈴木規子/2015-10-11