ルーシー・シャツ 監督インタビュー
人間として、人間に魅了されているからこそ
「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー2012 in 山形」で来形したルーシー・シャツ監督にインタビューを行ないました。
Q: 『ガーデン』、『密告者とその家族』を拝見し、パレスティナとイスラエルのリアルな現状をうかがい知ることができました。どちらの登場人物にも共通する「社会的弱者」をテーマにするのはなぜですか?
RS: 私はいつも、横の道にそれてしまう人々に魅力を感じます。彼らは、国の状況をある意味で象徴しているのではないかと思うのです。彼らは人間ひとりひとりとして闘っている、それと同時に、その国の現状を表わしているように感じます。
Q:『密告者とその家族』では、イスラエル政府が、パレスティナ人を密告者になるよう勧誘していますが、なぜ勧誘しているのにもかかわらず、密告者の身分保証をせず、窮地に追いやるのでしょうか?
RS: 密告者たちを、不安な状態においておくのが、イスラエル政府にとっては都合がいいのです。密告している人たちが、政府に依存せざるを得ないように、どれだけ苦労しても、政府を必要としてしまう状況に追いやるのです。そのほうが、イスラエル政府の得になるからです。これは、エル・アケル家だけでなく、密告者全般に言えることだと思います。
イブラヒムの場合は、イデオロギー的にイスラエル側に加担しているわけですが、他の密告者の多くの場合は、弱みにつけこまれているのです。自分自身に医療的なケアが必要だったり、子どもたちがイスラエルの病院に入らなければならなかったり、あるいは子どもに海外留学をさせなければいけないと思っている親なども、同じように協力させられていると思います。必死な状況に追い込まれている人たちは、どうしてもイスラエル政府に依存してしまうのです。
Q: エル・アケル家は多数のトラブルを抱えながらも、そこには家族愛があるのを感じました。しかしながら、親と子どもが想い合っているのにもかかわらず、息子たちはなぜ繰り返し非行に走ってしまうのでしょうか?
RS: それは、彼らの生活環境があまりにも酷い状況だからです。あの年齢の子どもたちは、街のアイデンティティと同化していくところがあると思います。街での暮らしがあまりにも困難なうえに、彼らは滞在許可証を持っていないので、簡単に逮捕されてしまうのです。そうすると、そこに負のサイクルのようなものが発生します。犯罪を犯していないのに捕まったりすることで、反感の気持ちが生まれ、非行に向かう。それが循環してしまっているのです。状況の希望の無さが、そうさせてしまっているのではないでしょうか。
この映画の重要なシーンで、父親が逮捕され軟禁された時に、子どもたちの父親への敬意が失われていく瞬間がみられると思います。とくにアラブの文化では、父権的な尊敬を集めるということは、人間関係のなかで大事なのです。そのなかで、父親が無能な父親という存在に追いやられてしまった時に、子どもたちは、父に対する信頼を失って、背を向けてしまう。そこに、なにか転換点があったように思います。父親は子どもを管理したり、良いように躾けたいと思っているけれども、その時点で子どもたちの気持ちが離れていってしまっていると思います。
Q: イスラエル政府にも取材をしたというお話でしたが、作中にはそれがありませんでした。どういった意図なのですか?
RS: 語り口の手法として、けっして調査報道のような映画を作ろうとしたわけではないからです。ひとつの家族を通して伝えていきたいことがあって、それは、彼らの経験を観客がなぞっていくことで得られると思います。
映画のなかで、イスラエル政府の存在というのは、電話を通してしか知り得ることはできません。向こう岸に居る謎の声であり、遠い存在であるわけです。そして、その声は約束をしたりしなかったりといった、不可解な謎めいた存在であるというように作り込んでいったわけです。
Q: 映画を制作するにあたり、共同監督のアディさんとの役割分担はありますか?
RS: アディが撮影して私が録音するという分業は一応あるのですが、それ以外は、まさにダンサーが一緒にダンスを踊っているような、非常に自然でダイナミックな関係を作り上げています。説明しにくいのですが、現場の状況に応じて、直感的な補完関係がふたりの間に生まれているのです。それは、被写体との関係にも非常に影響があると思います。被写体に対して、自分たちがあたたかい寛容な気持ちでいられるということが、ふたりのコラボレーションを上手くいかせているのではないかと思います。
それから、共同監督という方法でふたりっきりの作業なので、その関係がとてもユニークだと思います。アディはカメラを持っていますが、私は彼の撮影を100%信用していますし、その現場でどういう演出を目指しているのか、というふたりの気持ちは一致しています。そのときに、私は現場を彼に任せて、他のことに目を配ることができます。そして、彼が見逃したことを、言葉を使わずとも、指し示して誘導することができると思っています。こういう関係があってこそ、観客にはカメラがそこにないような印象を与えることができると思いますし、まるでその場にいるような錯覚を感じさせることができるのではないかと思います。
Q: ふたりの関係がそこまでに至るには、いろんな過程があったのではないですか?
RS: うまくいっている理由は、ふたりともエゴが強くないということがあると思います。エゴを無くしてこの仕事を一緒に行おうとし、お互いに尊重しあっています。
また、人間性の考え方が共通しているからだと思います。その関係のなかで、自分たちが現場をコントロールしていくのではなくて、それを離し自由にしていくことによって、なにかそこに可能性が生まれる、また、芸術が生まれる思いがけない人知の向こう側に行けるんじゃないかという感じがします。直接価値判断を下してしまうと、そこに留まってしまうわけですが、手を離すことによって自由になると思います。
Q: 作品を左右する、決定的で衝撃的なシーンが、作品中に多数うかがえますが、どのようにして、その場に遭遇することができたのですか?
RS: 重要なシーンを取り逃し、残念に思うこともたくさんありましたが、とにかく、現場に足繁く通うことが重要だと思います。そして、いつでも、なにが起こっているかということに対して、アンテナを張っているということだと思います。電話をしょっちゅうしてましたし、なにかあれば電話をもらうというシステムを、被写体の皆さんといつも作り上げていきました。
また、非常に運が良かったこともあります。例えば『ガーデン』のなかで、ニノが少年院から逃げ出したという話がありますが、そのとき、たまたまドゥドゥと一緒に、屋根の上で撮影をしていたのです。それで、ちょうどよく、ふたりが友情を確認している現場のシーンを撮ることができたのです。ドキュメンタリーの、驚きに満ちている思いがけない現場にいられるのは、まさに運だと思います。それと同時に、自分の仕事を規律正しくし、一所懸命に努力していくことが重要です。
Q: ドキュメンタリーのどういったところに関心がありますか?
RS: 私は人間に魅了されています。人間は特別な生き物で、いつでも驚かされます。
私は人間として、そして映画作家として、芸術を通して社会に変化を促すことが重要な役割だと思っています。映画を通して、私たちは力のある物語を語ってきました。ストーリーだけではなく、美しいものを人に手渡したいという情熱があります。それは、私の芸術への愛が成すことではないかと思っていますし、同時に、自分が他の人のためになにかできるという、映画作家の仕事は特別ではないかと思います。映画が、被写体や観客になにか変化を促し、自分たちが社会に貢献したものは、ギブアンドテイクの関係で、帰ってくると信じています。
Q: YIDFF 2011ではロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)を獲得しました。どんなお気持ちですか?
RS: 圧倒されました。大変光栄に思っています。
あのとき、私は手術を終えたばかりでした。手術の後の治療経過は問題ないだろうとのことでしたが、身体的な状況が悪い時期でしたので、そのニュースは自分の気分をとても持ち上げることになりました。素晴らしいことですし、私は山形映画祭が大好きです。世界の中でも、とても重要なフェスティバルだと思います。というのは、映画を純粋に語ることができる場というのは、世の中からますます減ってきてしまっているからです。他の世界の映画祭は、商業化してしまっていると思いますし、映画芸術のピュアなものについてディスカッションしていく場を、この映画祭が持ち続けているということは、とても素晴らしいと思います。社会の人々が、人間の本当の声に耳を傾ける機会を、無くしてしまうことはいけないと思います。いまでは、宣伝広告のような情報が氾濫していますが、映画芸術というものに、より一層耳を傾けることが大事だと思います。
映画祭のスタッフからメールがきたのが深夜の時間だったのですが、メールを読んだときにすぐアディを起こして「これ以上なにもいりません。十分満足です」といったことを覚えています。
Q: 次回作の構想はどういったものですか?
RS: テルアヴィブの病院の、40〜50代の5人の女性医師を主人公にしたシリーズを作っています。彼女らの自己像やプライベート、それから患者との関係も含めて追っかけています。彼女たちが、いかに大きな犠牲を払って、身を捧げるような仕事に就いているのか、これはまさに、アディとふたりで撮ってきた、人権や人間の自由というテーマに関わってくる主題だと思います。彼女らの賃金は非常に少なく、掃除作業員よりも低い賃金で働いています。労働時間も非常に長い。そして多くのストレスを抱えています。彼女らの犠牲がどういうものかということと、職業のなかで人を癒すということはどういうことなのか、人を助けるというのはどういう仕事なのか、ということについても議論を深めようとしている作品です。
もうひとつは、フィクション作品です。アディが何年か前から、自伝的な少年時代の物語を書き始めているのですが、それに基づいた作品です。彼は波乱にとんだ子ども時代を送っていました。お父さんはタンカーの船長さんだったので、幼い頃から彼は大西洋、太平洋を行き来する暮らしをしていました。6歳のときにニューヨークに移り住むのですが、その後一家は離散してしまい、大変な子ども時代でした。そのことをフィクションの映画にしようと思っています。
(採録・構成:奥山心一朗)
インタビュアー:奥山心一朗、桝谷頌子/通訳:藤岡朝子
写真撮影:桝谷秀一/ビデオ撮影:田中可也子/2012-08-19 山形にて