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YIDFF 2011 インターナショナル・コンペティション
インターナショナル・コンペティション審査員長
アトム・エゴヤン 監督インタビュー

「映画の科学」を語り合う


Q: 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、プログラムを通じて、フィクションとドキュメンタリーの境界についてしばしば問いを投げかけてきました。今年の映画祭では、この問い、またはこれに近い問題にどのように向かい合われましたか? また、その問題は、インターナショナル・コンペティションの審査員としての仕事に影響を与えましたか?

AE: 今回非常に印象的だったのは、作品の豊かな多様性です。入念に組まれたプログラムからは多くのさまざまなドキュメンタリーの潮流を感じました。ドキュメンタリーとフィクションの境界といった議論が、それぞれの潮流に与える影響を見ることは、審査員として大変有意義でした。

 私はこれまで少なくとも10回ほどは劇映画の審査をしていますが、今回がいちばん刺激的な審査員体験だったと感じています。審査員全員が、作品の〈ねらい〉や〈真摯さ〉、そして時に微妙で変わった視点を表現するためにカメラがどのように駆使されていたかといった、非常に特異な問題を扱ううえでの豊かな知識を持っていました。

 劇映画の審査員をしている時によく感じることですが、劇映画では審査員の構成の性格上、そこに華やかさを出すという目的のために集められた男優や女優が多くいます。彼らは自分たちの見ている映画に対して独自の意見を持っていますが、ドキュメンタリーの審査員たちが持っているような、映画の科学についての知識は必要とされないのです。ですので、私は今回大変光栄に感じています。

 審査員の中では私が一番経験が浅かったので、審査員長に指名されたことは奇妙に感じられました。審査員長を務めるとは知らずにここに来たのです。これは最初の審査員会議で決まったことで、たまたまそうなっただけのことです。でも他の審査員の方々から、彼らの技巧や芸術形式についての話を聞き、多くのことを学びました。選考を進めることは困難な作業でしたが、私はヤマガタでの経験をけっして忘れることはないでしょう。

Q: 〈映画の科学〉とおっしゃいましたが、この言葉はどのような意味で使われましたか?

AE: 私の言う〈科学〉とは、とりわけ、目の前に起きていることを捉えるためにカメラがどのように使われるかということです。どのようにカメラのアングルやショットの長さ、作品の構成を選択するか、つまりドキュメンタリー、劇映画の別を問わず、監督が下すあらゆる種類の決断が、私たちが作品の題材をどう理解するかにとってこのうえなく重要な要素なのです。この考え方を違和感なく共有することができる空間にいたことは信じられないほど刺激的でした。

Q: 〈ねらい〉や〈真摯さ〉ともおっしゃいましたが、こちらはどのような意味で使われましたか?

AE: 今回の審査で、先輩のドキュメンタリー作家たちが彼らの考え方について話すのを聞いて学んだことのひとつが、いかにある種類のショットや選択が、映画の意図を裏切るかということでした。つまり映画の中のすべての瞬間が重要なのです。多くの商業的な劇映画に見られるような、より産業化された映画制作の手法では、それぞれの選択が匿名でなされます。ひとりの映画作家が判断を下しているように感じられないのです。一方で、今回私たちが観たすべてのドキュメンタリーには、その作家の個性を感じました。そのため作品の良し悪しに関わらず、審査員は、そこでなされた作家の選択を特徴づけるものを見出すことに熱中してしまうようでした。そしておそらく私はこのことを指して、ほとんど科学のようであると言いたかったのです。そこに計算や公式があるという意味ではありません。それは、なされたすべての選択に対して徹底した評定を加え、目指す何かをともに探す、という作業であり、今回その何かを見つけることができたと思っています。

Q: 今までおっしゃったことはドキュメンタリーを形式の面からみた見方ですが、ドキュメンタリーの審査員には、映画を内容と形式のどちらで評価するのかについてひとつの葛藤が存在するのではないかと想像します。その葛藤についてはいかがでしたか?

AE: そうですね。ある特定のストーリーを語るうえで何が最善であるかを考えるべきだと思います。ロバート&フランシス・フラハティ賞を獲った『密告者とその家族』は、形式について言えばとても伝統的な映画ですが、その手法は、この特異な題材を語るうえで最上の方法だったと思います。被写体を取り巻く状況は普通ではなく、その一家を描くという選択はとても思い切ったものでした。そのためおそらく「フライ・オン・ザ・ウォール」というアプローチこそがそれを伝えるのに最適な手法だったのです。  確かに、我々が賞に選んだいくつかの作品には、形式へのこだわりの強い作品があったと思います。たとえば『殊勲十字章』では、作品の構成や手法に関して、形式を重んじる意識を感じます。しかし作家は、自分自身が、題材である彼の父親の話とどのように関係しているかを考えたうえで、あのような異化的な仕掛けを用いることを選んだのです。そしてこの選択はその特別な題材に対して効果を発揮しました。私たちは主題とは無関係に形式だけを見ているわけではありません。  素晴らしい映画は、深い洞察力と、おそらくは絶対的な確信に裏付けされた、純粋な形式をもっているのではないでしょうか。それが私が評価する映画の指標なのです。

Q: ではあなたの評価は、その作品において題材がどのように語られているかをもとに下され、そこには、内容の強度と、その内容を表現するための最適な方法で形式が利用されているかどうかという点の両方が含まれているということですね?

AE: その通りです。そして、どんな題材が、どのように語られるべきかということについてのあらかじめ決められた考えを持って審査に臨むべきではありません。作家が訴えようとしていることを見つけ、そのままのかたちでそれを評価しようと努力します。それは、審査するうえで必ずしも容易なことではありません。作家がしようとしたことやその野心をしっかり見極める必要があり、彼らはこうすべきだった、などと早まった判断を下すべきではないからです。

Q: 映画祭全体を通じて、審査以外の面ではどのようなことを思われましたか?

AE: ドキュメンタリー作家たちをうらやましく思います。彼らはこういった倫理的な問題と常に格闘していて、それが彼らの映画制作の入り口に、そして中心にあるのです。それはとても特殊な仕事であり、ドキュメンタリー作家になった者が通る、特別な道なのです。この一週間そのような世界の中で過ごすことができて光栄でした。そして、すばらしく刺激的で、わくわくする一週間でした。

Q: ヤマガタでの経験はあなたの作品に今後どのような影響を与えると思いますか?

AE: そうですね。映画祭で出会ったドキュメンタリー作家たちの考え方に圧倒されました。ドキュメンタリーの形式について考えるときの思考は、劇映画の作家の思考とは違いますからね。私はずっとドキュメンタリーを観ることが好きでした。しかし子どもの頃は何となく受け入れることができずに育ちました。というのは、カナダでは国立映画制作庁のドキュメンタリーを延々と見せられ、その多くがありきたりで、型にはまった作品ばかりだったからです。それでも私は、アルバート・メイスルズやカナダの映画作家アレン・キング、さらに皆さんご存じのフレデリック・ワイズマンの作品を鑑賞した時の興奮を覚えていますし、素晴らしいドキュメンタリー映画が切り開く新しい世界を前にした時の興奮も忘れてはいません。

 山形映画祭は、この感覚を見事に肯定してくれました。

「フライ・オン・ザ・ウォール」……カメラの存在をあまり観客に意識させない手法。

(採録・構成:カイル・ヘクト)

インタビュアー:カイル・ヘクト/翻訳:渡辺一孝
写真撮影:岩井信行/2011-10-15 東京にて

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