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YIDFF 2009 アジア千波万波
アメリカ通り
キム・ドンリョン 監督インタビュー

死ぬ気で伝えたかったのは、生きていく決意を持った女性の姿


Q: 撮影の中で、監督ご自身が危険な目に遭われたことはありましたか?

KD: クラブのママさんとか、元締めの人たちから、いろんな危険を感じました。私はこの映画を撮る前に、女性団体トゥレバンにいて、アクティビストとして1年程、その人たちが使おうとしている女性を脱出させたりしていたので、にらまれて当然なわけです。撮影の時も、カメラを持っていくとまず入り口で引っかかって、「やめろ」と言われました。ですから、裏路地からはいれるところを探し、カメラを乳母車に入れて布に包んで持っていっていました。髪型や服装で、人目につかないように工夫しても、元締めの人たちから尾行されたこともありました。よく、「なぜ彼女たちの働いているクラブを撮らなかったのか」と言われます。でも私は、彼女たちの本当の生き様が表れているのは、昼間自分の家で過ごしている時の姿だと思っているのです。

 「アメリカ通り」は、本当はクラブの集中している通りのことですが、今では基地村で働く人たちの居住区のことを、そう呼ぶようになっているので、映画のタイトルも『アメリカ通り』にしました。私が表したかったのもこの住居空間で、そこを見せたいと思ったのです。また、韓国の人が「基地村」と聞くと、まず浮かぶ典型的なイメージは、クラブの通りがあって、フィリピンやロシアの女性が、短いスカートをはいて立っていたり踊っていたりするというものです。ですから私が「基地村を舞台に映画を撮った」と言うと、そういったところを見たいという欲望が、みんなにあったと思いますが、私としては逆に見せないことで、そういう人たちを失望させたい、という意図がありました。

Q: 撮影がつらくて、1カ月休んで、また行って撮るということを繰り返していたとうかがいましたが、それでも完成させようという原動力はどこからきていたのですか?

KD: これは完成させないと、自分が死ななきゃいけないという気持ちになっていたんですよ。なぜかというと、4、5年間自分がそこにどっぷりつかって、ありとあらゆる苦労や、不思議な経験をたくさんしました。作品として完成させないと、そういったことがすべて無駄になってしまうわけですから、それはもう死ぬ気で取り組みましたね。映画を完成させるということは、結末を語るということになると思いますが、彼女たちの生活は今も続いているので、結末はありません。ところが撮る側の私としては、終わらせなきゃいけない。人工的に結末を作るのがどうしても嫌だったので、どうしようかなと思っていたのですが、時間が流れるにつれて、Kおばあさんが亡くなったり、マリアの出産があったりしたので、自然に終えることができたと思っています。

Q: 映画を通して、基地村の現実を多くの人に伝えることで、実際に生活している彼女たちに、どういう影響が起こると思いますか?

KD: この作品を企画したのは、社会的な現実を知らせたいからではありません。もちろん観客のみなさんは、まず最初に、基地村が抱えている現実を情報として受け取ると思います。でもこの作品は、私が感じた彼女たちの生活のリズムや、抱えている感情、彼女たちから受けた感動を伝えたい、と思ったことから生まれたのです。基地村で命を繋いで、生きていくんだという決意を持っている、そういった彼女たちの姿に共感してくれることが、私としては一番うれしいですね。

(採録・構成:田中可也子)

インタビュアー:田中可也子、岩鼻通明/通訳:根本理恵
写真撮影:知久紘子/ビデオ撮影:木室志穂/2009-10-11