鈴木志郎康 監督インタビュー
恥ずかしさを失えば、人間は終わり
Q: 作品を作る時、観客に見せるということは意識されましたか。
SS: 案外、僕は観客に見せるということを意識しています。だから、演出というのかはわからないけれど、どこかしらあるんですよね。媚びていくとか、大うけを狙っていく感じはない。でも、見ていて何か変わっていったりね。見ている人にアピールするものがないと、見ている人は無視され、映画のほうから拒否されていると感じます。それは避けたいと思っています。みんな、私的な自分の生活の中で撮って、自分の考えを展開しているから、なかなか考え方を共有できないことがあるんです。
Q: 自分の私的な部分を見せることを、何十年も続けていますが、恥ずかしさはないんでしょうか?
SS: 恥ずかしいよ。撮られるのは一番苦手。でも、恥ずかしさって、それを乗り越えるためにあるものなの。恥ずかしさを失ってしまったら、人間は終わり。僕は基本的にあまり出たくないんだよね。授業も嫌なんだよね。みんなの前でしゃべらないといけないじゃない。いやだなぁと思っている。給料を貰っているんだからしょうがないけどね。
Q: 今回、積極的に取り込こもうと思った映像などはありますか?
SS: 今、僕がここ数年の間に作っているのは、撮影においてテーマとかは決めていないんです。だいたい、日常的にカメラを持って庭の花を撮ったり、また他の場所に行って撮ったりするんです。それが、あるところまできた時に、こんな具合にまとめていけるかなと思うんですね。今回の作品は、去年のことなんです。去年は、学生演劇の「自来也」というのに関わっていて、若い人たちと付き合っていくうちに、身体性というところにかなり傾斜していった、というのがありますね。
Q: インターネットという、身体無き空間の中を、ご自身も使用されていますが。
SS: ネット上は、身体は無くなっているけれど、僕のブログなどの文章では、身体の痕跡としての動詞があるんですよね。動詞とか、場所の移動とかね。インターネットの中で、身体の現われというのは、あるんじゃないかなと思うんです。だから、どこでおきたかを書くとか、動詞を僕の場合はしっかりと書いている。皆、それはあまり意識していないんだけれど、読む時は、書いている人の姿が見えてくる感じはあるでしょ。これは、ブレヒトが「言葉というのは、姿全体でもって語りかける」ということを言っているんです。文章とか、何でも書いたものは、書いている人の姿が見えることがあるんです。それと、ブレヒトの場合劇作家だからね、大切なのは、単純な言葉ではなくて、言葉の中から人の姿が見えてくるということ。インターネットの中では体が全然見えないけれど、言葉の中からは、身体は見えてくるんじゃないかなと思います。
Q: 極私、という表現にこだわっていらっしゃいますが、そもそもの、極私をやろうと思いたった出発点というのは?
SS: 現象ということがあるんですよね。現象しないものが、しっかりと展開することによって、現象したものとして認識される。基本的に自分というものを現象として捉えていく。その現象としての自分を展開していく仕方によって、普遍性が得られるかな、というのが出発点ですよね。だから、普通に何かものを考えたり、表現したりすると、普遍性ということをよく言われる。僕らの若い時は、普遍性がないなと思うんです。でも、そうではない。むしろ普遍性を考えることによって、真実性が失われるんじゃないか。その時に、真実性というのは、リアリティを失っていく。リアリティを獲得するには、自分というのをよく見て、自分を現象として扱うということ。それが極私の始まりですね。
(採録・構成:森山清也)
インタビュアー:森山清也、佐藤寛朗
写真撮影:加藤初代/ビデオ撮影:加藤孝信/ 2005-09-30 東京にて