かわなかのぶひろ 監督、萩原朔美 監督 インタビュー
映像の言葉で語る「映像書簡」とは
Q: 「映像書簡」を始めたいきさつを教えてください。
かわなかのぶひろ(KN): 『PLAYBACK』という僕の作品を見た、カナダの映像作家ドン・ヅルーイックから写真の手紙をもらい、それ以来互いに写真やイメージだけで、手紙を交換し合うようになりました。そこで言葉を使わない面白さ、イメージによるやりとりには、言葉が介在しない面白さがあると思い、これは日本でもできるかなと考えました。そして、性格も趣味もまったく違う萩原と一緒にやってみよう、と思ったのがそもそもの始まりです。
Q: 今回の作品について、お聞かせください。
萩原朔美(HS): ここ何年間かはずっと死の話に終始していて、そんな中で、かわなかさんがいきなり入院し、病院の中でも撮影していることを知って、これは「映像書簡」の中に入れなければ、と思いました。
KN: あまりにリアルなことだから、自分の病気というのは映画にならないと思いました。ちょうど同じ頃に、萩原のお母さんの体調が悪くなり、萩原が母親を撮ると言ったんです。長年やっているから、萩原は正面切っては母親を撮らないだろう、とわかりました。ですので、自分は徹底的に自分を撮ろうと思いました。最後に背中を叩いたのが「世界の映画監督で、自分自身にそういうふうにカメラを向けたやつはいるかい?」という萩原の言葉でした。徹底的に撮ったから、ショッキングなシーンもあるけど、自分がふと見た日常の風景を入れていけば、そうした日常風景が観る者に残っていく。それによってかわなか固有の出来事だけではなく、映画になるんじゃないか、と思ったわけです。
Q: 萩原監督の水を取り入れたシーンについては?
HS: 水や火というのは映画でよく使われてますよね。そういうチラチラしたものがあるかぎり、ストーリーがなくても人は映像を見てしまう。なぜなら映像はチラチラしたものだからです。人間が映像を見てしまうのは、生存の欲望なんですよね。かえるは動かないものが見えない。動くものは敵と餌。人間も昔は動かないものが見えなかったんだけど、それが今見えてしまうのは付随眼球運動って言って、自分の目を動かしているからです。自らの目を震わせることによって、動かないものも見えてしまうんです。だから僕は多分そのチラチラしたものや、パトカーのサイレンとかチカチカした点灯とか、どうしても注意を喚起するようなものに惹かれてしまうんです。というのは、昔の生存の欲求。映画の鑑賞というのは生存の欲求で、逆に言えば死の欲求かもしれない。そういうものから発しているから、みんな見てしまうんです。
Q: 「映像書簡」に通底しているものとは何ですか?
KN: 映画っていうと、何か特別の仕掛けを考えて、特別なことをやるっていうのが普通だけど、そうではない、ごくごく日常の足元みたいなものから始めました。そうした日常をうつすことで、お互いの固有の記憶っていうのは、固有の記憶ではなく何か繋がってるんじゃないか、と感じたんですよね。人はいつも夕陽をキレイだと思うし、小鳥が鳴いているのは可愛いと思う。こういうのは人間の細胞の中に埋め込まれている記憶というものを騒がせるんじゃないか。こうしたイメージを連鎖していけば、言葉を介さずに映像の言葉として、作者の意図とは別に、観る者の心の中で映像が広がっていくことができる。それが映像の言葉っていうことじゃないかと思うようになりましたね。テーマ主義的に映画を観てしまうと、何か肝心なものを見逃してしまうということがあると思いました。
(採録・構成:石井玲衣)
インタビュアー:石井玲衣、森山清也
写真撮影:加藤初代/ビデオ撮影:加藤孝信/ 2005-10-04 東京にて