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YIDFF 2003 アジア千波万波
予言の夜
アマル・カンワル 監督インタビュー

「詩」で未来についての話をしよう


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Q: この映画を撮ろうと思ったきっかけは?

AK: ひとつは、今日世界中で、特にインド国内では、それぞれの国や民族の様々な位置にいる人たちが、それぞれの場所で鍵をかけられ固定してしまっている、またそれぞれの位置同士でのコミュニケーションでさえも、成立させることが非常に難しいという現状のなかで、この掛けられてしまった鍵を、何とか解除する方法はないかと思い、そのために詩が使えるのではないかと思いました。2つ目に、人類の歴史の中で、今日の時点というのは、多くの人が全く新しい政治の語彙、枠組みを求めて、未来を指向しています。その中で、様々な領域を横断する手法として、詩が有効なものではないかと思いました。この作品の中で扱っている詩は、様々な差別や正義やカーストの問題、貧富の問題、人種の問題などいろいろな問題を語っていますが、これを言い換えれば、自由を様々な異なる視点から見ているといえます。これらの詩を通して、観客が様々な地域を地理的に移動すると同時に、時間的、歴史的な旅をし、ほんの一瞬でも歴史のある部分を捕まえることができ、心が豊かになることができれば、そこで始めて新しい未来についての話ができる、会話が成立するチャンスが生まれるのではないか、と思ったのです。

Q: 登場する人と監督の関係は?

AK: 大抵の場合、初対面でこの作品の意図、台詞ではなくて詩でやることで深い次元での可能性を探り、社会にアプローチしたい、ということをいきなりぶつけたんです。そうすることで多くの場合、「それならば」と了承してくれ、短期間で急激に信頼関係を築くことができました。

Q: はっきりとした光のコントラストの映像や、焦点をぼかした映像が印象的でした。

AK: ある人物を構築しているものは何かといったら、そのときの時点で周りにあるこの現実だけではなく、過去の記憶の断片との両方が、ミックスしたものであると思います。過去の記憶と言っても、はっきり覚えているもの、半分くらいしか覚えていないもの、忘れたいのに記憶が戻ってきてしまうもの、そういった様々な断片があると思います。なのでこの作品には、構図的にもバランスがとれていて、露出、焦点も完璧といった非常にパーフェクトな映像もありますし、また、わざとぼんやりとした映像も混ぜることで、抽象的な記憶のぼんやりとしたものを表現したのです。そして、観ている方ひとりひとりの、個人的な過去の記憶を含めての存在感が、触発されるのではないかと思いました。

Q: 詩をのせることで映像に奥行きがでると感じたのですが。

AK: 詩というものは、それ自体が非常に濃いもので、様々な象徴的な言語が入っていますし、様々なことに示唆するような、言及するヒントが含まれています。それらを撮って映像で表すことをしようと思えば、いくらでも、たくさんの映像で洪水のように、爆発のように遊ぶことはできるわけです。しかしそうすると詩そのものが持っている濃さ、密度からかけ離れていってしまう気がしました。そこで、そのようなことはせず、なるべく抑制した表現で、カメラの動きもなるべくゆっくりにするようにし、じっとある場所に行き、その人の顔をしばらく映し続ける。そうすることで映像の濃さも詩の濃さも観客に染み込んでいくことになるのではないかと思いました。

(採録・構成:矢部敦子)

インタビュアー:矢部敦子、林下沙代/通訳:溝口彰子
写真撮影:佐藤朱理/ビデオ撮影:近藤陽子/2003-10-14