R・V・ラマニ 監督インタビュー
影絵芝居の人形使いたちは映画作家の祖先です
Q: この映画を作った動機は何ですか?
RR: あらゆる人は芸術家です。誰でも市場の需要に影響されないで創作したいわけですが、残念ながら私は常にそれと闘い、抗っています。影絵芝居の人形使いたちの取り巻く環境が大きく様変わりし、今や時代錯誤になってしまった彼らの状況に自分の姿が重なりました。かつて映画やテレビがなかった時代、村人たちは芝居を楽しみにしていました。が、今やそんな観客もいません。そのようなリズムはもはや失われてしまいました。インドにおける農村の生活スタイルは激変しました。娯楽に対しての考え方も全く変わったのです。私も似た状況です。最新技術に携わっていますが、同様の終末に向かっているように思えます。明日誰も私の映画を見なくなるかも知れない。作りたい映画が制作できなくなるかもしれない。現に私の友人である多くの映画作家たちはそのような状況になっています。常に苛立ちがあります。それが私の動機でした。影絵芝居の人形使いたちは映画作家の祖先だと思いました。レンズやセルロイドやテクノロジーがなくても、彼らは油ランプだけでスクリーン上に壮大な物語を映しだしたのです。そしてかつてそれは大衆に愛されました。
Q: 国民芸術として保存されるべきだとインド政府に対して働きかけるような意図がありましたか?
RR: この映画を作った時点では、影絵芝居を保存していこうという考えはありませんでした。でも今は政府へのある種のアクティヴィズムとして、この映画を感じています。この映画を見せると、政府関係者たちが何らかの形で手助けをしたいと志願してこられます。でも芸術を実際どのように保存していけるのか分りません。ドキュメンタリー映画作家としての私の芸術を保存したいと誰かが考えたとしたら、どのように私の芸術を保存してくれるのでしょうか。私自身が私を救わなければなりません。もし私の芸術が保存されるべきなら、私こそが何かをやらなければならないのです。他人がそれをできますか? それは不可能です。影絵芝居の人形使いたちは映画やテレビが彼らの職業をはく奪したのだと言います。私はそうは思いません。それだけが原因ではありません。彼らの芸もいくらか衰えました。人形使いたちの技量も失墜したのです。彼らの様式も何らかリニューアルされるべきなのです。世の中は流転し、我々もどうにか変わらなくてはなりません。ですから、因果関係は否定しませんが、テレビだけのせいにするわけにはいきません。
Q: 120時間以上撮影したとのことですが、最終的に153分にどのようにまとめましたか?
RR: この映画の上映時間はかなり危険な賭けでした。友人たちに相談しましたが、皆口を揃えて「そんなに長くしたら、誰も見なくなる」と言っていました。でもインドでは劇映画は2時間半〜3時間が常識で、人がそれを見るのに、なぜこの映画は見ないわけ?(笑) そこでこのロジックを採用することにしたのです。最初はいくつかのシークエンスをカットして1時間作品を作ったのですが、どうも落ち着かなくて、カットしたシーンを全部戻しました。
Q: 監督は撮影の出身ですね。そのことが映画のスタイルにどのように影響を与えていますか? 作品にヴォイスオーバーのナレーションや音楽を使用していませんが。
RR: カメラマンにとって撮影したショットは大変重要です。映画の最たる基本はショットです。ひとつのショットのエネルギーが、さらにはそれが別のショットにいかにエネルギーを注いでいくかを分かって下さい。これはセメントを使わず、レンガだけで家を建てるようなものです。音楽やナレーションを使用すれば、セメントで固めるようなもので、すべてが接着しています。でも、もし各断片を繋げるような確実な論理的なパターンがあれば、バランスを保ち、崩れることはありません。ヴォイスオーバーや音楽はドキュメンタリーで乱用され過ぎています。私はあるショットが別のショットを活かしていくことに興味があるのです。ヴォイスオーバーや装飾的な音楽に執着していない、各ショットの繋がりで構成されている物語に惹きつけられます。
(採録・構成:伊豫部希和)
インタビュアー:伊豫部希和、早坂静/通訳:なし
写真撮影:佐藤朱理/ビデオ撮影:遠藤奈緒/2003-10-11