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YIDFF 2003 インターナショナル・コンペティション
スティーヴィ
スティーヴ・ジェイムス 監督インタビュー

犠牲者ではなくスティーヴィについての映画


Q: この映画を撮ったきっかけは何ですか?

SJ: 最初はとても小さなプロジェクトから始まりました。ほんの小さなポートレイト映画。現在のスティーヴィに再会して、彼が今何をしているか、どのような風貌になっているか、どんな人生を送っているのか、私がそこに住んでいた時から10年過ぎていて、それらのギャップに満ちている映画を作ったらおもしろいのでは、というのが最初の発想でした。ほとんどが当時の彼と自分の経験を懐古するようなものを撮るつもりだったのです。30分ぐらいの短編にしようかと思案していました。ところが彼が重罪を犯し、逮捕された瞬間から大きな転換が起こりました。そこで突然この映画を続けるかどうかが問題となり、そしてその時からまさにこの映画『スティーヴィ』になっていき、彼がどのようにその状況に追い込まれたのか、と最初の考えとは違う意味で彼の過去を探究することになったわけです。

Q: 映画のあるシーンで監督はこう言いますね、「スティーヴィの苦悩を見せ物にすることによって、罪滅ぼしをしているような気持ちになる」と。監督はドキュメンタリーという媒体について、またプライベートな領域に侵入することについてどのようにお考えですか?

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SJ: 他人の生活を生で感じて、共にその時間を過ごすような映画には、本質的で倫理的なジレンマが制作者側につねに忍び寄ってくるものだと思うのです。でも一方でドキュメンタリー作家というものは社会的な変化に専心する人々ですから、疎外され虐げられた人々を守っていくヒューマニストとして自分たちを認識するのが好きなわけです。さらにもう一方で、この手の物語を追うことは、他人の不幸を売り物にしているような悪徳業者のように自分たちを感じることもあります。そして対象にあまり時間をかけない、あるいは長い映画にもかかわらず数回ぐらいのインタビューをしておけば、そんなジレンマを簡単に正当化することができます。でも、もしある人間と長時間過ごし、強い絆を築いていれば、何か事件がその人に起これば、友人としてこちらも辛いわけです。ところが同時に心の底ではこう思うでしょう、「こりゃ、すごい。なんてドラマチックでパワフルなのだ。もっとおもしろい映画になりそうだ」。こんな囁きは嫌ですが、でも確かにあります。そして私はそれを『フープ・ドリームス』や他のドキュメンタリーでも経験しています。でもこの映画ではそのことは殊更深刻だったように思えます。なぜならスティーヴィは単なる知人ではなくて、既に私との強い絆がありました。しかもその絆は10年以上の時間をかけて形成されたものですからね。そこで、このような問題自体を映画の中心軸にし、前景化していくことにしました。もし彼とその家族についての映画を作るなら、できるかぎり謙虚に撮影して、そして私自身も映画の中に写し出されるべきだと考えました。それが正しいかどうかは分りませんが、少なくとも私はそう思いました。

Q: スティーヴィはとんでもない犯罪者であり、うわべには社会の敵又は怪物的存在ですが監督は映画の中で彼の持つ不思議な愛すべき “何か”を捉えていますね。彼の犯した罪を卑下せず、どのようにそれを描くことができたのですか?

SJ: 彼のような人間を卑しめて、さらには怪物のように描写された映画を作ることに何の目的があるのですか? それは既にメディアがやっていることです。私は犠牲者ではなくスティーヴィについての映画を作ったのです。なぜ人はこのようなことになるのか、どのようにそうなったのか、ということについて観客に考えてもらいたかったのです。なぜなら彼らも同じ人間だからです。社会を代表する我々は、ある種の人間の行動をまるで自分たちには決してありえないような悪魔か怪物の仕業として認識することにより気が楽になるわけです。でも、ある人間の軌跡を理解しながら見ることができる映画だったら、その人間と観客を深く繋ぐことができます。

 私自身が映画に登場することのいい点のひとつは、個人的に私のことをどう思うかはさておいて、自分がある意味観客の立場を代表していることです。この映画の観客のほとんどは私と似たような階級の人で、スティーヴィが育ったような環境とは無縁です。不快な事件を目撃する私をスクリーン上に見る観客の視点は、映画の中のスティーヴィたちの生活を密接に見ている視点と混在されることになります。私の状況を通して観客はどのように反応すればいいのかを考えることになるのではないでしょうか。

Q: スティーヴィのような人が親切にされることによって、彼はありもしない希望を持つことになるのではという気もしたのですが。この映画に登場する人たちは、監督自身も含めて、彼を見放したことに罪の意識を抱いています。やさしい人々の良心的な努力が、問題をさらに悪化させてしまうこともあるのではないでしょうか。

SJ: スティーヴィの人生は継続的な放棄についての物語です。母親に放棄され、会ったことさえもない父親に放棄され、彼が最も愛した里親に放棄され、“お兄さん”であった私に放棄されたのです。だからこれはどちらがより悪いのか、といったようなものです。それでも彼は私と過ごした時間や里親との思い出を胸に秘めていたのです。もし“何かをする”と“何もしない”のどちらかを選ばなければならないのだったら、私は“何かをする”を選択するでしょう。たとえそれがあなたの言うように状況を悪化させたとしても。最終的には、これは普通の家族のようになりたかった深刻な問題をもった家族についての映画です。そしてこれは世界のどこにでもあるようなことではないでしょうか。

(採録・構成:伊豫部希和)

インタビュアー:伊豫部希和、山本アン/通訳:なし
写真撮影:小川知宏/ビデオ撮影:斎藤健太、小川知宏/2003-10-15