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■ウィグワム?燃える矢
■橋
■波浪
■雨
■われらは建てる
■フィリップス・ラジオ
■クレオソート
■コムソモール―英雄たちの歌
■新しい土地
■ボリナージュの悲惨
■スペインの大地
■四億
■動力と大地
■インドネシア・コーリング
■最初の年月
■世界の河はひとつの歌をうたう
■セーヌの詩
■早春
■イタリアは貧しい国ではない
■旅行日記
■ヴァルパライソにて…
■ミストラル
■ベトナムから遠く離れて
■北緯17度
■愚公山を移す
■風の物語
■マグニトゴルスク―新しい人間の製造





 
ヨリスイヴェンス特集
ある映画監督の生涯の鳥瞰図
ケース・バカー

映画の誕生から数年後,20世紀が始まる直前の1898年11月18日に、ジョージ・アントン・イヴェンスはナイメヘンで生まれた。13歳で既に最初の映画『ウィグワム―燃える矢』を製作したが、このアメリカ先住民の物語には、イヴェンス一家が総出演している。当初、イヴェンスは映画監督になろうとは考えていなかった。父の写 真機材の会社CAPIが右肩上がりで繁盛していて、それを継ぐつもりだった。写真事業に必要な教育を受けるためロッテルダムの商科大学で経済を、ベルリンで写 真工学を学ぶと同時に、イカ、ツァイス、アーネマンで見習いとして働いた。1928年の前半、アムステルダムのCAPIで働きながら、『橋』を撮り始める。この映画でイヴェンスが意図したのは、何より運動,構図と映画言語の研究だった。最初の上映後、『橋』は絶賛を受け、アヴァンギャルド映画の傑作と見なされるようになった。イヴェンスの評価が確立したのは、『雨』の製作後である。彼は、全オランダ建築労働者組合10周年記念の映画製作を同労組から依頼される。『われらは建てる』は、イヴェンスが労働者との関わりを示した最初のドキュメンタリー・シリーズであるが,演出の主眼はまだ労働者の生活ぶりよりも、仕事ぶりの方にあった。オランダ最初のトーキー映画『フィリップス・ラジオ』の後、1934年にアンリ・ストルクと共同で、最初の本格的な社会派ドキュメンタリー『ボリナージュの悲惨』を作り、ボリナージュの炭坑労働者のストライキと生活の窮状を扱った。イヴェンスの社会的かつ政治的な取り組みがあからさまになるのは、ゾイデル海干拓工事の記録映画で、『新しい土地』というタイトルは,ハンス・アイスラーの音楽と共にはっきりとした政治的メッセージを帯びていた。既にイヴェンスの政治的信念は1933年の『コムソモール―英雄たちの歌』における社会主義者のユートピアに表明されていた。音楽を担当したアイスラーらと共同製作したこの映画では、全連邦レーニン共産主義青年同盟によるマグニトゴルスクの溶鉱炉建設に基づき、社会主義ソビエト連邦が築き上げられる様を記録している。ソビエトにしばらく滞在した後,1936年にイヴェンスはアメリカに発ち、スペイン市民戦争の勃発により後に『スペインの大地』(1937)に結実することになる映画の製作のためコンテンポラリー・ヒストリアンズ社が設立された。スペインの人民戦線側前線で記録されたこの映画は、今日でもイヴェンスの最重要作品の1つと見なされており、真に迫る撮影、編集、アーネスト・ヘミングウェイの抑制の利いたナレーション文、そしてフランコのファシズムへの明確な対決姿勢が際だっている。1年後イヴェンスは日中戦争を撮影し(『四億』)、続けてアメリカ合衆国を主題にした映画を数本製作。

イヴェンスの生涯の仕事からすれば比較的短いこの時期に、彼は既にドキュメンタリー映画史にしっかりとした足跡を残して、以後ドキュメンタリーの監督達自身が“運動”と称する道を開拓した一人と一般 的に評価されている。ドキュメンタリー映画の言語の発展に与してきたイヴェンスは、さらにドキュメンタリー映画を自らの理想、社会の進歩や弱小集団への抑圧反対に捧げ続けた。共産主義者に共鳴するイヴェンスであったが、オランダ政府は、インドネシアの解放を記録するオランダ東インド領映画監督官に彼を任命した。しかしイヴェンスの目には,オランダがインドネシアを解放しているのではなく、再植民地化しているのは明らかだった。オランダ側の契約違反と考えたイヴェンスは職を辞し、インドネシアにおけるオランダの政策に反対する宣伝映画を製作した。『インドネシア・コーリング』(1946)はオランダとの事実上の断絶であり、イヴェンスは“祖国の恩を仇で返す放蕩息子”の烙印を押された。しかし、これが彼の映画製作を妨げることはなかった。既に世界のあちこちで撮影していたイヴェンスに、今度は東ヨーロッパから、第二次世界大戦で傷ついた国々が社会主義国家としての未来へ再建される様子を撮影するよう依頼が舞い込んでくる(『最初の年月』〔1949〕)。1957年まで東ドイツで製作していたイヴェンスは、当地でドキュメンタリー映画の歴史においても最大級の製作規模を持つ作品を手掛けるが(『世界の河はひとつの歌をうたう』〔1954〕)、この時期の映画は共産主義のプロパガンダの性格が強く、芸術性を展開できる自由が与えられていなかったこともあり、芸術的な要素は乏しい。

1957年イヴェンスは西ヨーロッパに戻り,フランスで叙情的な『セーヌの詩』を製作する。しかし、これでイヴェンスが政治的、社会的な取り組みから完全に方向転換したわけではなく、以後の映画には詩と政治、自由製作と委託作品の2つの側面 が入れ替わり現れることになる。1958年には北京電影学院で働きながら、映像詩『早春』と政治映画『Six Hundred Million with You (六億の民衆が君とともに)』を製作。イタリアの官営石油会社ENIの委託された映画(『イタリアは貧しい国ではない』〔1960〕)の後、革命派支持の『Pueblo armado (武装した民衆)』と同時にチャールズ・チャップリンに宛てたより詩的な旅行記『旅行日記』をキューバで製作している(ともに1961年製作)。60年代のイヴェンスの作品の特徴がこれらの両極端の要素にあることは、ヴェトナム(『Le Ciel, la terre [空・大地] 』[1966]、マルセリーヌ・ロリダンと撮影した『北緯17度』[1967] )などや他の地域での戦闘をありのままにとらえた映画の前に、特筆すべき2つの映画詩『ヴァルパライソにて…』(1963)と『ミストラル』(1965)を製作していることからも窺える。
マルセリーヌ・ロルダンとの共同作業はこの時期に始まり、1989年のイヴェンスの死まで続いた。様々な共同作業の成果 の中で記念碑的なシリーズが、文化大革命が中国の人々の日常生活に及ぼした影響を描いた12時間の映画『愚公山を移す』である。いくつかの重要な共同作品の中には、詩的、瞑想的で、時に風刺的でもある遺作『風の物語』(1988)も含まれる。この作品は、5大陸から題材を採り、激動の20世紀の証言であるイヴェンスの堂々たる作品群の見事な到達点であった。

イヴェンス作品の継承

イヴェンスは映画監督としての生涯を通して、作品製作中に生じた書類を保存していた。独立した機関にそれらの記録を寄託したいというイヴェンスの願いどおり、ヨーロッパ・ヨリス・イヴェンス財団が彼の死から1年後に設立されたのは、記録の管理、目録作成、開示のためであった。財団がヨリス・イヴェンス・アーカイブを設けたのは1995年で、そのコレクションは1人のドキュメンタリー監督のものとしては見事な、また豊富な各種資料を揃えている。それ自体がドキュメンタリー映画史と20世紀社会政治史の断面 図である。財団の目的は、アーカイブや取得したコレクションを公開すると同時に完全なものに近づけ、このドキュメンタリー映画史の一角を保存し、学生、研究者、ジャーナリスト、作家、映画製作者らの、イヴェンス自身や彼の映画史における役割、彼が立ち会いカメラで記録した事件、ドキュメンタリー映画一般 などについての知識を得たい人々にアーカイブを利用可能にすることである。ヨーロッパ・ヨリス・イヴェンス財団はイヴェンスの作業を継承するつもりだ。映画を作ることによってではなく、イヴェンスの映画を生かし続け、人々にイヴェンス作品を見るよう、そして彼が記録した世界、カメラに収めたかった世界について考えるよう働きかけることを通 して。そのために、ヨリス・イヴェンス・アーカイブを利用してもらうだけでなく、展覧会、レトロスペクティブ、会場、映画プログラムやその他の活動を組織し、今も激動の20世紀と、その歴史を反映したドキュメンタリー映画の役割を人々に理解していただければ、と願っている。


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COPYRIGHT:Yamagata International Documentary Film Festival Organizing Committee