『アンヘル69』
テオ・モントーヤ 監督インタビュー
『アンヘル69』制作の経緯
吉田未和(以下、吉田):元々はB級映画の「アンヘル69」という構想があったと聞きました。ナレーションがあり、あたかも劇映画のシーンであるかのようなショットや他の作家の作品の引用などが続きます。本当にこのB級映画があったのではないかと観客に思わせる仕掛けが面白いと思いました。作品の構想はどのようにしてできたのでしょうか。
テオ・モントーヤ(以下、モントーヤ):この映画は編集の映画です。はじめから脚本があったわけではなく、最初にアイディアがあり、どういったものを作ろうかと構想しました。だから最後の最後まで、何が出来上がるかわかりませんでした。例えば、赤い目をした人形が出てきますが、あれがどう映画と融合していくのかというところは、自分自身も全くわからなかった。キャスティングし、撮影し、また別の映像を撮影し、モンタージュし、編集する。その上でもう1回考え直し、もう1回撮りに行って作る。そうやって編集していく上で再度書き直し、織り直すといったこと繰り返しました。
映画作りにはいろいろな制作過程があります。例えば、私はこの映画の前にひとつ短編を作りました(『Son of Sodom』2020)が、それが私にとってエクササイズにもなりました。(本作では)援助金などの資金を得るために、プロジェクトを提示するという意味で脚本を書いたこともエクササイズのひとつでした。
吉田:前作の短編から今作までの経緯はどのようなものでしたか。友人カミロ・ナハルの死をきっかけに、最初の映画の構想が大きく変わっていったように思われました。
モントーヤ:私は変化していくものに対して非常に興味があります。混沌とした状態は色々なところに対して可能性が開かれています。どんな形式で作ることも可能なわけです。私は最初、フィクションを作ることだけを考えていたのですが、さまざまなことがあって変わっていき、結果としてドキュメンタリーとして受容することができた。映画がそのように作られたということはもちろんですが、変わっていくということは、人生とか生っていうものの反映でもありますよね。カミロ・ナハルの死は、映画をフィクションからドキュメンタリーに変えることになりました。
映画は有機体である
吉田:上映後の質疑応答で監督は、キリスト教の伝統的な死のイメージには苦しみというのがあり、それを自分なりに解釈し直したいと考えたと話していました。映画の中には教会、十字架など、キリスト教のイメージがあふれています。
モントーヤ:この映画はキリスト教の世界観と密接に結びついています。例えば性というテーマがありますが、キリスト教の中では禁忌とされています。よく知られているように、ホモセクシャルの人はカトリック教会において迫害されてきたという歴史もあります。しかし、私の映画には、ホモセクシャルでいて、さらにエロティックなイメージがたくさん出てきます。イエス・キリストの裸体のイメージもそのひとつです。キリスト教は苦しみという感覚に重きを置いていますが、実は痛みと喜びが共存しているという側面があると思います。コロンビアは本来キリスト教の世界ではありません。キリストの世界観は、コロンビア引いてはラテンアメリカにとって押し付けられたもののはずですが、にもかかわらず私たちはキリスト教のイメージを無意識的、潜在的に多く持っている。そのことに個人的にも興味があって表現したいと考えました。
吉田:冒頭ではコロンビアの政治の流れ、戦争のことにも触れていました。2016年に政府とFARCとの間に和平合意があったが、政治は未来の約束になれなかったと言われています。
モントーヤ:まず最初に同時代的な語りを入れたかったという意図がありました。現代的な、今起こっていることを導入するための言葉や映像が必要でした。和平合意が行われ、コロンビアは平和になると言われましたが、平和って一体何なんだと。平和を知らない国の人間にとって、平和がどういうものなのかわからない。それが私たちの生きている国コロンビアの現実なのです。コロンビア以外の場所で本作を見てくれる観客に対してもそこは伝えたいと思ったのです。
吉田:映画の中でトランス・フィルムという表現があります。それはボーダレスでジェンダーレスなのだと映画の中でも言われています。撮影や編集、そして上映を経て、この言葉について改めてどのように考えていますか?
モントーヤ:創造するときに大切なのは、自由であるということです。映画の中でどうやって自由な形式、自由な作り方ができるか。加えて、この映画は現在における私たちのアイデンティティが問題になっています。この映画は一体何を求めているのだろうと、私は自分自身の映画に対して聞くのです。
映画は有機体であり、身体のようなもので、どんどん変わっていくと私は思います。その意味で映画には国境もないし、多くの方法論が可能です。この映画はインビテーション(招待)なのです。観客の皆さんに対するインビテーションとは何か。それはカテゴライズしない、ジャンルを問わないということです。ホラーであるとか、B級映画であるとか、ドキュメンタリーかフィクションかと、皆簡単に質問しがちですけど、これはフィクションなんだ、ドキュメンタリーなんだといったような分類をしない、そんな必要はないよねっていう、ある種の映画の見方への招待です。だから、これは映画についての映画でもあります。
若い世代に伝える
吉田:本作ではビクトル・ガビリア、ルイス・オスピナなど、他の映画の引用なども印象的です。あるいは赤い目の生物は、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブンミおじさんの森』(2010)から着想を得たということでした。
モントーヤ:それらについては、やはりオマージュとして入れたかったという側面があります。映画を作る前、私はミュージシャンとして電子音楽を作っていました。電子音楽の基本はサンプリング、つまりアイディアが元々あってそれを取り入れるという方法です。アッバス・キアロスタミの『クローズ・アップ』(1990)のショットなど、他の監督の手法も大胆に取り入れてみました。そういうやり方をすることによって、映画の中に映画を導入すること、すなわちメタ・シネマという形式を表現したいと考えました。
もうひとつ大切なのは、新しい世代に対して映画をどうやって伝えるかということです。若い世代は過去の映画というものをどんどん失っています。その中でも映画を深く探求していってほしいと私は思っているのです。例えばハリウッド映画の影響があります。ハリウッド映画によって、結局私たちの映画は植民地化されているのではないでしょうか。大きい資本があって、そういったものに侵食されているというような意味です。イグナシオ・アグエロ監督の『ある映画のための覚書』(2022)の中で、言葉を取り戻すという趣旨の表現がありましたが、それは西欧からの植民地化に対するひとつの答えでもあります。そういったことを自分の映画で表現したいと考えています。私たちがどこからやってきたのか、それは大切なことなのです。
映画が扱っているテーマ自体、非常に思索的なものです。私たち若い世代にはニヒリズムのような、厭世感のようなものがあります。私自身はサイバーパンクなどのカルチャーにも興味があり、そこで扱われているテーマは、私とは何かといった実存についての問いが根底に流れています。また、若者は自意識、つまり自分たちがどういった存在なのかということを気にするものですよね。哲学に関心のある賢明な仲間もいますから、周囲の影響や、自分が関わってきた文化が背景にあって、自分たちが生きて生活している状況、自分を含めた若者たちがどういうことを思っているかについて、よく考えることがあります。
吉田:YIDFF以外にも『アンヘル69』は多くの国際的な映画祭で評価されていますが、そういった評価をどうとらえていますか? また、ご友人たちはこの映画をどのように見ていますか?
モントーヤ:普遍的なテーマを扱った映画で、他の国でもよくあるような事象を扱っているっていうことが(評価されたのだろうと)まず言えますよね。好意的に受け止められることもあるし、反対の意見を言われることもあります。もっとも、私にとって他の人の意見はあまり気にならないというか、どちらでもいいかなとは思っています。ひとつ、とても印象に残っていることがあります。映画にも登場していたフリアンというHIVの友人がいますが、その子が言ったコメントが今でも忘れられません。この映画を見たあとに「ありがとう」と言ったんです。「僕が世界に対して何か共有できるものがあるなんて、僕自身知らなかったよ。」と。この言葉がとても好きですね。
歴史の証言者になること
吉田:ビクトル・ガビリア監督の出演はどのような経緯で決まったのですか?
モントーヤ:まずはガビリア監督の娘さん、マルセデス・ガビリアと知り合い、機会を持てたという幸運がありました。メデジンにおいてガビリア監督はとても大切な方なので、メデジン映画の歴史の証人として呼びたかったのです。ガビリア監督が作った映画の意味を現在から見てどうで考えるかということです。ガビリア監督の『Rodrigo D: No futuro(Rodrigo D: No Future)』(注:コロンビア/1990、同年カンヌ国際映画祭にノミネートされた)はメデジンの若者たちを主人公とした作品で、暴力や殺人なども扱っています。証言者として彼に映画に登場してもらうことによって、私たちは過去を受け継ぐことができるわけです。
映画の中で、私が死体に扮して棺の中に入り、ガビリア監督が霊柩車を運転しているシーンがあります。霊柩車の中に現在と過去の映画監督が2人同居しているという状況、いわゆるループの状態です。『Rodrigo D: No futuro』は、メデジンの若者たちに未来がないという映画です。それが30年経った今、どうなっているでしょうか。何も変わっていないじゃないですか。閉塞的で変わらないメデジンの街と、その中に生きる若者を撮ったふたりの監督が霊柩車に同居し、2人とも死者たちの代弁者となった。映画を撮るということは、記録をすること、証言者になることなのです。監督たちがそこに映り込むことによって、死者たちの声が代弁されているのです。
採録・構成:吉田未和
写真:阿部旭葉/ビデオ:大下由美/通訳:嘉山正太/2023-10-08
吉田未和 Yoshida Miwa
YIDFF 2011年のヤマガタ映画批評ワークショップに参加、2013年よりインターナショナル・コンペティションの選考委員を務める。「SPUTNIK――YIDFF Reader 2023 No.4」に「トランスする映画――『アンヘル69』」を執筆。山形市在住。