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YIDFF 2011 インターナショナル・コンペティション
遊牧民の家
イマン・カメル 監督インタビュー

自由になることは挑戦すること 映像で旅する遊牧民の世界


Q: セレマさんは大変力強い生き方の女性だと思いました。彼女を被写体に選んだきっかけはなんですか?

IK: 2004年に彼女と出会ったとき、彼女は、観光用の手工芸品の事業を担当していました。私は、その同じ年にシナイ半島で映画を作ろうと考え始め、半島中を旅しながら被写体になる人々や物語を探していたのですが、徐々にセレマに焦点を合わせていきました。彼女は特別な女性です。けれどもこの映画は、セレマや、私、またはベドウィンの人々についての映画ではありません。これは、日本の俳句のような、私のシナイの旅全体を凝縮したエッセンスとでもいうべきものなのです。

Q: カタログの中でおっしゃっている「現代社会の中で遊牧民になること」とはどういうことでしょうか?

IK: 私は、世界の様々な人や自然と深くつながり、新しい生き方を発見しなければならないと切実に感じています。私は世界を回り、人々とつながり、とても簡素で、調和のとれた生き方を見つけようと努力しています。この3日間、誰も英語を話さない宿坊で過ごしましたが、周りの人々とはすばらしい調和の中で過ごすことができました。これがまさに私が求めているものであり、私が映画を作る理由でもあります。「遊牧民であること」とは、広い心を持ち、この世界を歩き、学ぶことであり、私たちにとってそれが最も大切なことだと思います。

Q: ラストシーンには監督が登場しますが、セレマに監督ご自身を重ね合わせているのでしょうか?

IK: ベドウィンの女性たちを撮るのには長いプロセスが必要でした。彼女たちはカメラに対してとてもシャイで、私たちは多くの時間を沈思黙考して過ごすことになりました。私も自然に自分自身の人生を考えることになり、私の共同作家は、次第に私の物語を映画に入れ込まざるを得なくなっていったのです。

 ですが先ほど申し上げたように、この映画は、ある特定の人物を取り上げる伝統的なドキュメンタリーとは違います。この映画は、あなたがあなた自身の想像の世界に入り旅をするよう、招いているのです。あなたがたに、自分のイデオロギーや国籍から離れ、自分の小さな家から出て、他者と出会いつながるような、遊牧民になってほしいのです。このことは、過渡期にある今日の世界において、非常に重要なことだと思います。

 ラストシーンでの「自由になりたい」という言葉における自由とは、何かから逃げるとか解き放たれるということではありません。自由になることとは挑戦すること、未知の何かに新しく挑戦することなのです。

Q: セレマとその夫がカメラを見つめるシーンが印象的でした。

IK: 映画を撮っている間中、様々な禁忌がありました。セレマの夫がセレマの撮影を受け入れたことは、ベドウィン社会において革命的でした。私はこのことを誇りに思い、彼ら二人を撮影したかったのです。このシーンはこの映画の中でもとても重要な部分ですが、とても長いシーンで、様々なことが起こっています。ここには撮影の過程、ドキュメンタリーの本質が集約されているのです。

 映画はインタビューではなく、関係性そのものです。このシーンではカメラが被写体の近くにあり、彼らはそれにどう対処するのかを迫られる。ここには、被写体とカメラの間の相互交流があり、それこそが映画の本質です。映画とは、一種の対話であり、コミュニケーションの強力な道具なのです。

(採録・構成:岡田真奈)

インタビュアー:岡田真奈、斎藤里沙/通訳:斉藤新子
写真撮影:小清水恵美/ビデオ撮影:市川恵里/2011-10-07