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YIDFF 2009 アジア千波万波
現実、それは過去の未来
黄偉凱(ホァン・ウェイカイ) 監督インタビュー

無秩序の中の秩序


 黄偉凱(ホァン・ウェイカイ)監督は、この映画の出だしで、中国の大都市での生活を、絶え間ない自然破壊下での生活として描いている。日々の生活の混乱が、街の様子のコラージュとなり、それはそれで秩序を保っているように見える。26の事件が代わる代わる描かれ、最後にひとつの物語にまとまる。監督は、自分が描いた広州という都会は、多くの点で世界中の都会と共通するものがあると考えている。

 映画を見て私が最初に気づいたのは、映画の中で使われている監督自身が撮ったショットが3つだけということだ。映像のほとんどは、撮った映像をテレビニュース番組に売る、アマチュアのDVカメラマンたちから買ったものだ。これらの映像が、監督が織り成す独特なパッチワークを作り出すために使われた。

 監督は、ニセの自動車事故、熊の手の販売、人通りが多い道で踊る男性、通りを走り回るブタ、川に身を投げて自殺する男性、捨てられた赤ん坊、魚を求めて汚染された川に飛び込む男性など、社会の不条理な部分を描いている。ブラック・ユーモアと、監督による物語の語り方が、映画を生き生きしたものにしている。これは、理由や結果についての映画ではないのだ。黄偉凱は、混乱から彼なりの秩序を再構築している。カメラマンたちが撮ったカラー映像を白黒にして、アマチュアのDV撮影者たちの様々な撮影スタイルを使うことで、都市のシンフォニーを織り成しているのだ。編集には15カ月かかった。結局、音楽を入れないことが、映画にとって正解だった。おかげで監督が言うように、都市生活のファンタジーを反映した、印象主義の描写となったのだ。

 黄偉凱が最もこだわるのは形式だ。それはおそらく、彼に中国の水墨画の素養があるためだろう。それが、いろいろなショット、人々、空間、時間の様々なストーリーラインを映画と組み合わせるという、非常に知的な方法へとつながっていったのだ。

 監督は形式については、実験精神と、彼が中国の水墨画や文学から学んだことを合わせることが重要だと感じている。

 この映画の編集の仕方は、イメージを交互に入れるという監督の手法と、興奮を高まらせるサウンドのおかげで、非常にパワフルだ。黄偉凱は編集中、この映画の長さを1分も違わず、きっかり61分とすることにこだわるあまり、強迫神経症になりかけたそうだ。さらに編集中、唐や宋王朝の詩の文学的なテクニックを多く組み込むというアイデアを思いついた。これら古典的な中国文学のレトリックは、西洋文学の伝統とはっきり異なっているが、唐や宋王朝の詩には、比較、対比、隠喩、誇張、直喩、反復などの共通点があり、それらはすべてこの映画で使われている。たとえば道の上のブタは感情の隠喩で、映っている人々は理不尽だ。黄偉凱は、すべては観客を映画に引き込み、反応させるためだと語っている。最も大事なことは、観客が自分自身でこの映画を再編集、再構築することだと考えているのだ。

 この映画の中の3つのシーンには、サウンドが無い。黄偉凱が、そのほうがいいと考えたからだ。自然の音を使ったことが、この映画の成功につながった。彼の表現の仕方は、芸術的で知的だと思う。現実は、過去の未来なのだ。大都市で育った男性が、現実を描いている。都市生活を表現する方法はいろいろあるが、彼は自分なりのユニークなやり方で、それを描写した。もう一度言うが、この映画をパワフルなものにしたのは編集だ。黄偉凱は、ドキュメンタリーを作るたびに、あらゆる可能性を試しながら違う方法を編み出している。彼が、次に何を見せてくれるのかに期待したい。

[蕭淑憶(シャオ・シューイー)]

インタビュアー:蕭淑憶(シャオ・シューイー)、木室志穂/翻訳:村上由美子
写真撮影:伊藤歩/ビデオ撮影:鈴木大樹/2009-10--11