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YIDFF 2009 アジア千波万波
されど、レバノン
エリアーン・ラヘブ 監督インタビュー

本当のレバノン、ひとつひとつの物語


Q:『されど、レバノン』(英題『This is Lebanon』)というタイトルには、どのような思いが込められているのですか?

ER: この言葉は、いつも父が使う言葉なんです。映画の中で、各議会の会派について、結局宗派によって結びついて、真の意味で政党は存在しないことを言い表して「これがレバノンさ」と彼は言っています。よく一般にも「これがレバノンさ」と、それが運命であるかのように語られます。それが現実としてあるのは確かだけれど、私が映画で表現したかったのは、私や友人たちのように、宗派主義を乗り越えていくレバノンを夢見る人たちがいることです。

 レバノンのメディアは、美しい国レバノンというイメージを打ち出し、一方欧米のメディアは、レバノンといえば戦争、という描き方をしています。私はどちらも、それがレバノンの本当の姿ではないと思います。そういう表層的な描き方に対して、物申したかったのです。レバノンには、そこに住む人々の、ひとつひとつの小さな物語があって、それは美しい物語であるかもしれないし、醜い物語であるかもしれません。それが本当のレバノンの姿、「これがレバノン」なのだという意味合いも込めて、私はこのタイトルをつけました。

Q: アフィーフさんが、血の憎しみで弟を失った、また宗派が知れたことで友達を失った、と言っていたことが印象的でした。

ER: イスラエルというのは、まさに中東に持ち込まれた宗派主義です。各宗派を扇動して利用し、アラブ世界全体の抵抗の力を弱めようとするのが、シオニズムの企みであると、わたしの父はいつも言います。一方メディアでは、イスラエルとの戦いというと、常にヒズボラのことが出てきます。確かにヒズボラは抵抗運動(レジスタンス)ですが、宗派主義的な集団でもあります。もともと、イスラエルとの戦いは、共産党や左派の多くの人々が、正義を地域に取り戻すためにはじめたものなのです。イスラエルとの問題を解決するためには、新しい世代自身が、宗派主義というものを克服していかなければならないと思います。個人個人が自分自身に依拠することで何らかの新しい可能性が見え、イスラエルからの解放も可能になるのではないかと思います。

Q: 監督のお父さんが、最後に「おまえは私の娘だ」と矛盾に苦しんでいる部分で、ふたりの関係がどうにかできるのではないかと感じました。

ER: そうなんです。父は矛盾に満ちた人間です。彼は、自分が宗派主義的な人間だということを自覚しています。ただ家族、教会、社会といったシステムから逸脱していくのが怖いのです。彼は私を否定しているわけではなく、むしろ私がこの環境を乗り越えようとしていることを、誇りに思っています。彼自身乗り越えることはできなかったけれど、どこかでそれを望んでいたからだと思います。彼は私のことを理解している一方で、心配もしています。レバノンの宗派主義というのは、克服されていないのが現状で、この現実の中で、ゼイナやアフィーフのように、私が孤立してしまうのではないかと案じているからです。

Q: これからのレバノンに、どんな未来を望んでいますか?

ER: 宗教が、あくまで個人的な信仰の対象であり、支配の原則であったり、社会の構造や人格まで決めたりしない社会であってほしいです。非常に偏狭なアイデンティティを、もっと広いものにしていき、そういう新しい世代を代表するような政治家が出てきて、市民が市民であるといえる社会を望んでいます。

(採録・構成:鶴岡由貴)

インタビュアー:鶴岡由貴、木室志穂/通訳:森晋太郎
写真撮影:保住真紀/ビデオ撮影:広谷基子/2009-10-10