講師:ペドロ・コスタ 氏(映画監督)、菊池信之 氏(映画音響)
映画の音を語る その、不敵な試み
音を言葉にするのは、難しい。菊池信之氏は、映画の音に大切なのは“質感”だという。質感は、“いかにも・それらしい”ものが持つ“記号性”と対局にある。しかし、つかみどころのない空気の振動である音を言葉に置き換え、表現しようという行為そのものが、すでに音に記号性を持ち込んでいる。そんな矛盾をはらんだ試みに、映画監督ペドロ・コスタと映画音響菊池信之のふたりが果敢に挑んだ。
1日目
コスタ監督は、音と映像は分離されない、映像から音を取れば映画にはならないと語る。時に音は映像以上に感情を刺激し、シーンによっては音が主役となる。映像から乖離しない、直接的で妥協しない音にするため、自作では生の音を基調としているという。また、「録音技師は、目先のことに気を取られず集中力がある。監督のように忘れっぽくない……」と、ユーモアを交え語るひとこまもあった。
後半『ヴァンダの部屋』のラストシーンを題材に示されたのは、映像と音にもたらされた“一種のギフト(授かりもの)”。場面にふさわしい音を作り出すのではなく、受け入れる準備のみを行って待ち続けた末、映画に引き込まれるようにやって来た“奇跡”について語られた。さらに、『コロッサル・ユース』の例も経て、「一種の谷間(キャニオン)に入って、その水の流れに沿って進めば、フィルムは自然に作品を誘導してくれる。不必要な素材の詰め込みすぎを解消してくれる」と、詩的な解説が付された。
身近なツールであるビデオカメラについては、ミキシングや効果音に気を配りつつ、顕微鏡のように使うべきであると指摘。小津の『東京物語』を例に、現実世界における小さな事柄を、映画において拡大して描写すると、大きな発見をもたらす可能性を示唆した。
2日目
菊池氏は、映像はカメラがとらえたフレームの中で完結するのに対し、音はフレーム外の音が重要になると語る。つまり、作品世界を取り巻く状況全体における映像の位置を捉えた上で、音を選び作る必要がある。同氏は、撮影現場で自分が感じた音こそが作品の音であると考え、両者を一致させることを心がけているという。たとえば、アフレコ用に、現場にあったはずの音を完璧に再現したとしても、それは似て非なるものに過ぎない。目覚ましのアラームなど日常的に耳にする音も、聞いた人の感情や聞こえた時の環境によって変わってくる。映画では、被写体と音の関係の積み重ねからリアリティが生まれるものであり、そこにいる人が聞いたであろう音や聞こえ方を再現するのが重要となる。
後半は、『チーズとうじ虫』から具体例が示された。たとえば前段の病院シーンでは、主人公に気持ちの余裕があることから、院内の様々な音が耳に飛び込んでくる。その後、母親の病状が悪化するにつれて、聞こえる音は病床の周りのものだけにそぎ落とされ、かすかな音さえクリアに響く。しかし、このような整音は、音の操作によりフレーム内の感情を操ることにつながり、危険でもある。映画的に都合のよい音作りを安易に行わず、踏みとどまることが重要となるのだ。菊池氏は、被写体への理解を深めた上で、その場面に存在している様々な音を、現場スタッフに提示することもあるという。豊かな経験から培ってきた職人技(これこそ、コスタ監督が彼らに信頼を寄せる理由であろう)がうかがえた。
(熊谷順子)