アラン・ベルガラ インタビュー
人間味あふれる映画祭で、
現実の現実性と向き合うことのよろこび
Q: 最初に、本映画祭全般についての印象をお話し下さい。
AB: 私自身ドキュメンタリー映画を撮っていることもあり、各地の映画祭をかなり良く知っているつもりです。そういう視点から、この山形の映画祭についてまず言えるのは、大変良いコンディションで映画を見ることができるということです。会場は快適だし、長蛇の列に並ぶ必要もない。ひとたび腰を下ろせば他の事に煩わされることなく、映画を見ることができる。
それに、この映画祭で見られる作品は、レベルが非常に高いだけでなく、さまざまの文化圏から集まった作品であるということがあります。ヨーロッパ圏の映画もアメリカ圏の映画もかなりありますが、アジアの作品も多く、いながらにしてドキュメンタリー映画の世界で現在起きていることについて、広い視野を持つことができるのです。
また、15本にのぼるコンペ作品を見ることで、現にドキュメンタリー映画の世界で進行中の事態を知ることができる。特に、この映画祭に出品された多くの作品において明らかであるように思われた傾向は、映画作家個人が作品中に身を投じるという傾向、つまり、映画作家自身が作品の中で自らの思いや現に起きている事柄や、撮影中に出会った困難について語るという傾向です。かつて、ドキュメンタリー映画では作家は対象の背後に身を隠したものでした。しかし、ここでは、作家自身が観察者としてまた発言者として作品中にある。それは広く世界中のドキュメンタリー映画の現場で起きていることだと思います。
第二に、新しい機材の重要性です。小型キャメラを手にすることで、映画作家はたったひとりで、彼自身の映像と音をつくり出すのです。そこから何か新しいものが生まれたのです。小型キャメラのおかげで、これまでとは異なる精神で作られた作品が可能になった。たしかに、フィルムで撮影された作品とは明らかに異なるのですが、しかし、すぐれた映写機をもってすれば、全く引けを取りません。それに、こういった新しい機材で撮られた作品はフィルムとは別物なのです。それによって、たとえば蝋燭一本に照らされた夜間の撮影なども可能になりました。以前だったら、大げさなライトを当てなければ、このような場面は撮影不可能だったでしょうし、そんな装備を現場に持ち込めば、雰囲気を、リアリティーを損なってしまうのは目に見えています。もちろん作家の才能無くしてはなしえないにしても、新たな機材によって何か新しいものがドキュメンタリーにもたらされつつあるということを、私はここであらためて発見したのです。
また、ほとんどすべての作家たちが集う映画祭であるということも特筆すべきことです。作家たち自身が姿を見せ、観客と語り合うということは、他の映画祭では稀なことです。審査員長という立場上、討論を聞くことで映画への評価が変わってはいけないと考えたので、作家たちと話し合い、彼らの意見を耳にすることが出来なかったのは残念なことですが。
Q: 映画祭の運営に関してはいかがでしょうか?
AB: よく組織されていると思います。受け入れは細やかでしかも人間的でした。それに、どこに行くにも歩いていけるというのは、実に便利です。通りや店で、映画祭に参加している人達と出会い、夜には香味庵に集い、その後はホテルまで歩いて帰れる。どの会場も歩いて行ける距離にある。カンヌのように、どうやって会場まで行ったらいいだろうと頭を悩ます必要もない。お高くとまった社交性もなく、すべてが人間的尺度におさまっている。それはきわめて快適なことです。それに多くのボランティアが、この映画祭を支えているということは、お世辞ではなく、すばらしいことに思えました。
Q: ドキュメンタリー映画というものについての、あなたのお考えをお聞かせ下さい。
AB: 私にとって、第一の基準は、何といっても現実の現実性ということです。一本の映画があり、作家は何かを見せようとしている、それは分かるのですが、この現実の現実性が欠けている作品がある。逆に、奇妙なことにそれはたちどころにして分かるのですが、映写がはじまり五分もすると、ここには本当の意味での現実がある、現実の現実性がある、と了解される作品があるのです。たとえ、非常に私的なドキュメンタリーであっても同じで、重要なのは、ショット、イメージの中にこの現実の感覚が存在することなのです。ドキュメンタリー映画を作るからには、なにがしかの現実が捉えられ、スクリーンに移し替えられなければならない。それができなければ、フィクションを作るなりすればよろしい。しかもこの現実性は、奇妙なことに、映画を仲介にしてしか出現しないものなのです。すぐれた映画作家は、この現実に喰らいつく力を持っている。そこから、現実性が立ち現れ、あらわに見えてくるのです。単に、興味深い対象の前にキャメラを据えれば、現実が映し出されるわけではないのです。それは、現実の模造品をつくり出すだけです。ショットは単なるショットではない、それは現実の観念ではないのです。その中に現実が生命を得なければならないのです。これは審査員長としてというより、全く個人的なドキュメンタリー映画への思いなのですが。
Q: 最後に、今後の映画祭のあり方について、何かあれば一言お願いします。
AB: 私は、現在あるこの映画祭のあり方を、守り続けることが重要だと思います。この映画祭は、そのあるべき場所を心得た、統一性ある映画祭になっています。ジャーナリスティックな成功に惑わされず、その本来の姿を保ち続けていただきたいと願っています。
(採録・構成:阿部宏慈 山形大学教授)
インタビュアー:阿部宏慈/通訳:なし
写真撮影:小川知宏/ビデオ撮影:松永義行/2003-10-15