イントロダクション
変えてはならない
1989年7月25日、第1回山形国際ドキュメンタリー映画祭開催のおよそ2ヶ月前、蔵王温泉の古い宿泊所で「映画祭ネットワーク発会式」が開かれた。
アジアで初めての本格的な記録映画祭を支えようとする有志たちの決起集会。山形市の担当者、実行委員会関係者、小川プロダクションの面々、国際映画祭を創る東京のスタッフたち、そして県内の様々な地域から参集した若者たち。まさに、このごった煮のような雑多なエネルギーが出発点だった。
当時私は、上山で稲作に取り組みながら映画制作を続けていた、小川紳介率いる小川プロの映画『1000年刻みの日時計 牧野村物語』の山形県内配給を担当し、牧野の農民詩人・木村迪夫さんの隣家に住まう小川プロを時々訪れていた。そんなある日、「山形市100周年記念事業で、国内外から映画や人が集まる記録映画祭が開かれる。映画の好きな地域の若者たちが積極的に係わるべきだ」と、小川さんは私の顔を見るなり市の担当者に電話をかけてくれた。そのスピード感。小川さんは人の関心を引き出し、あれよあれよとノセる天才だった。
行政と東京の専門家だけに任せておいてほんとに面白い映画祭になるのか、山形に定着してゆくだろうかと訝っていた私は、日を置かず会いに行くと、市も初の国際映画祭を市民にどう届けたらよいのか真剣に模索していた。有名な俳優たちが集まる華やかな映画祭ではなく、社会の実相や人間の生き様にひたすら目を凝らすドキュメンタリー映画の祭典が、東北の地方都市でどう受け入れられるのか。またこの取り組みが世界の映画人たちからどう評価されるのか、係わろうとする誰もが不安を抱きつつ、一方で未知の可能性への胸を焦がすような恋心を育てていたと思う。
そんな専門性と市民を自由に往き来できるのは俺達だと、普段から自主上映に取り組んでいた県内各地の若者たちは、この決起集会を機に、各自の独自のネットワークを活かして、映画祭を浸透させる様々な活動を展開していった。県内各地でのプレイベント上映、仲間作りとチケット普及、チラシやポスター配り、映画祭予告編映像や映画祭そのものを記録する映画制作への協力。参加監督のインタビューや取材。期間中の日刊新聞発行等々。主催者よりもテンションの高い生意気な市民たちと出会い、世界の息吹に触れたいという旺盛な好奇心が、この映画祭の在り方や独特な雰囲気を決めていったと思う。
世界にも市民にも開かれた窓としての映画祭を継続させようとする市の予算措置、そして世界の映画史と現在の社会、映画状況を見つめ挑戦的なプログラムを創り出すプロの仕事力とネットワーク、そして、実働によって映画祭を支え楽しもうとする多くの人たちのエネルギー。この三つの要素が連動しなければ、山形の映画祭運営は成り立ってこなかった。そして、国内外から山形に集まる多くの人々と多様な作品の数々が、その時その時の山形映画祭の意味を創り、教えてくれるのだ。
それは、今後も変らないだろうな。いや、変えてはならない。
そして、それぞれのヤマガタはゆく
天安門事件、ベルリンの壁崩壊など、世界を揺るがす出来事が巻き起こった1989年に始まった本映画祭は、戦後70年の2015年に14回目を迎える。歴史を振り返ることはもちろん、戦後71年、72年……をどう思い描いていけるのか。“戦後”の冠をあえて載せずとも、今回の映画祭もプログラムを横断して作品は結びつき、過去、現在、そして未来へと繋がっている。1週間に約160本上映と満載のプログラムに身を委ね、観る方々の興味や関心や偶然を重ね、それぞれの2015年のヤマガタを発見していただけることを心から願っている。
今回、インターナショナル・コンペティションは、6作品がラテンアメリカに関わっており、女性たちが生きる空間に現実的で親密な感性の力を見出だした『いつもそこにあるもの』、『女たち、彼女たち』など、女性作家たちの活躍が光る。『戦場(いくさば)ぬ止(とぅどぅ)み』は、日本プログラムの『沖縄 うりずんの雨』と併せてご覧いただきたい。
アジア千波万波は、真摯に対象にカメラを向けた初監督作品から、サラエボでタル・ベーラから映画を学んでいる作家による『鉱(あらがね)』、『太った牛の愚かな歩み』まで、異郷に身を置きながら制作する若手作家たちの試みが目を惹く。また、国際交流基金アジアセンターと共催し「アジア・フィルム・コミュニティ:きらめく星座群」を新たに企画した。ここでは、インドネシアの映画保存団体Lab Laba-Labaのインスタレーション、映画空間を開拓してきた作家たちのディスカッションなどを行う。2回目になる「ヤマガタ・ラフカット!」、2011年から続く「批評ワークショップ」とも連動し、これまで本映画祭で連綿と続いてきた、上映者や観客とのネットワーク作り、映画制作のあり方の再考、ドキュメンタリー批評などの場を、アジア内外の参加者とともに探る新たな出発点となりそうだ。
日本プログラムの『THE COCKPIT』、『PYRAMID』、『Voyage』は、音楽と接点を持つ内容だ。ラテンアメリカやアラブ特集でもスペシャル・ライブが開催されるが、緊密な関係にある音楽と映像というふたつの表現形態をヤマガタで味わう絶好の機会となるだろう。
ラテンアメリカ特集は、「第三の映画/サードシネマ」という潮流の水脈となったアルゼンチンの『燃えたぎる時』など、現在に連なるラテンアメリカ映画の一端を見せると同時に、現在に対して“従来(オフィシャル)”の映画から視線を転じていくための方法を示唆する。
「Double Shadows/二重の影」では、トルコ映画の知られざる歴史を明らかにする『リメイク、リミックス、リップ・オフ』など、映画そのものの姿を記録した作品たちが、映像を考察する複数の視線を提供する。
「アラブをみる」で上映される1940−80年代の16ミリフィルムは、かつてそこにあった〈風景〉を捉えている。途方もない課題が山積する現在のアラブのこれからを照射する様は、2011年から続く「ともにある」にも通底するかもしれない。昨年末に立ち上げた「311ドキュメンタリーフィルム・アーカイブ」の活動など、震災や原発事故後に制作された作品に対する継続的な思考の必要性が問われている。
「やまがたと映画」では、クロージング上映作品の『セピア色の証言』や、『子どものころ戦争があった』など、山形と戦争の関係を深く掘り下げる。
オープニング作品は、マノエル・ド・オリヴェイラの『訪問、あるいは記憶、そして告白』。4月に106歳で逝去するまで公開を禁じていたポルトガル人監督の遺言といえる作品だ。この間、ヤマガタに縁のある映画人たちの訃報も相次いだ。ブラジルのエドゥアルド・コウチーニョ、日本ドキュメンタリー史に数多くの名作を遺したカメラマン・大津幸四郎、プロデューサー・工藤充を追悼する。偲ぶとは、先人の遺したものから学び、また未来へと活かしていくことだろう。巨星たちの営みに導かれ、混迷を極める現代を生き抜き、映画を作り続ける、関わろうとする私たちに息吹をあたえ続けてくれることを!
膨大で細かな作業の集積が映画祭というナマの場を誕生させる。開催にあたって多くの方々から様々なご支援、ご協力をいただいている。心から深い謝辞を申し上げる。