重力が彼女を地面に引き寄せる。ふたりの女性、2世代の歴史と記憶が彼女をそうさせるのだろうか。それとも彼女がパフォーマーであるからなのか。暗闇の舞台で行われる、床を這うダンスは重々しく緩慢な動作を纏い、儀式性を帯びる。さらにプロジェクターからの映像を自身の肉体に投影させるインスタレーションが画面上で展開される。いずれにせよ重力から解放されること、これが彼女に課せられた通過儀礼なのだ。
他方で本作は、彼女がデジタルカメラで家族の日常風景を撮影した私的ドキュメントでもある。多数の家族写真とともに家族の歴史がナレーションによって語られる。祖母の受けた抑圧、その抑圧が母に受け継がれたこと。そして今度は私が受けているのではないか、と。彼女がカメラを持った動機はそこにあるのだろう。
冒頭、彼女のへその穴がクローズアップで強調され、妊娠、出産、母胎をイメージさせる映像が続く。アイデンティティに対する固執。しかし、同時に女性性への嫌悪も独白される。多くの矛盾と混乱を抱えた彼女は、やがてカメラを通して母や祖母との対話を開始し、そのカメラの存在が彼女たちの関係性に少なからず変化をもたらす。彼女から渡されたビデオカメラを母は祖母に向け、彼女と母、母と祖母、祖母と彼女の対話が循環していく。並行して、自らをプロジェクターの前にさらけ出し、下腹部や背中に母の顔を投影させるインスタレーションが行われる。この光景はまるで娘が母を産みなおすかのような循環を思わせ、切実感と滑稽さがないまぜのままに提示される。
本作には2つの対照的な長回しがある。おそらく家族の日常の光景なのだろう。祖母、母、娘の3人が順番に屈みこみ、祈りを捧げる様子を固定ショットで捉えた場面。2つの部屋を正面から捉えた手持ちカメラがゆっくりと360度パンして、ティルトアップしていく場面。前者で家族という重力、後者でそこからの飛翔のイメージが示され、さらに後者のイメージは終盤、両手を上下に羽ばたかせながら歩く祖母の後ろ姿に接続される(前述の360度パンの場面でも、パソコンに向かう母親の後ろ姿が映し出されていた)。大きな扉に向かって歩く作家の(ここでも)後ろ姿を捉えたショットで物語は終わる。果たして彼女は重力から解放されたのだろうか。