大阪市西成区、日本最大のドヤ街、日雇い労働者が多く暮らすあいりん地区(通称釜ヶ崎)。ここにある5階建ての小さなビル(その名も釜ヶ崎解放会館)には労働者や野宿者など3,300人の住民票が登録されていたが、2007年、市当局は居住実態のないことを理由に彼らの住民票を削除すると決定する。この決定に対して怒った労働者や路上生活者、その支援者達が、住民票と選挙権を求めて闘っていく様子の一部始終をカメラは追っていく。
早朝の三角公園を俯瞰で捉えた、一見美しいとも言えるショットから映画は始まる。だがその感情が芽生えようとしている瞬間、ショットは変わり、この感情は断ち切られる。この冒頭の違和感が終盤まで続く。なにより映画の見せ場となろう、投票所前でピケを張る大阪市の職員と選挙権を求めて投票を促す支援者たちのもみ合いや、支援者の若い男性と徳山と名乗る在日二世の男性とのユーモラスなやり取りを捉えたシーンなどもショットとショット、シーンとシーンの繋がりがぎこちなく、ここでも同様に感情のリズムは断ち切られてしまう。被写体の面白さが充分に生かされていないのではないだろうか。
映画の後半、釜ヶ崎解放会館の屋上がモノクロで映し出される。しかし、映画の登場人物にとっての現実がそうであるように、ここでの屋上は解放とは無縁である。だがその感情も最後に唐突とも取れるタイミングで、震災とそれに伴う津波・原発事故後の荒地となった福島を映し出した映像によってまた断ち切られる。この短いショットが含むインパクトに改めて驚くとともに、皮肉にも本作に対する違和感はここで解放される。この現実のインパクトが映画を凌駕していく。だがこのことは本作にとって決して不本意な出来事ではない。映画は震災後、あいりん地区の日雇い労働者が不当に福島の原発施設で被爆労働させられていた実態を新聞記事によって明示し、これらの問題は否応なくスクリーンの外の現実を提示する。事実、上映終了後のティーチインでは、監督がこれからも戦っていくとの抱負を述べるだろう。映画は終わるが、そして現実は続いていく。あいりん地区の労働者の困窮と福島を覆う困難な現実も。