男と船と犬の映画―『ソレイユのこどもたち』について 吉田孝行

東京の多摩川に浮かぶ捨てられた無数の船と捨てられた野良犬たち。船に住む初老の男は、河川敷で野菜を育て、捨てられた船を修理し、捨てられた野良犬たちに餌を与え、犬たちと戯れ、たびたび修理した船に犬たちを乗せて船出し、ゴミとして捨てられた日用品を拾い集めることで、日々の生活を送っている。

常に三脚に据えられたカメラが、その初老の男の目の前に置かれ、その男の日常を丹念に長回しで記録していく。ナレーションやテロップは一切ない。男はたびたびカメラに向かって独り言のように語りかける。しかし、それを撮影する作者が、その男に質問を投げかけたり、その男の語りに返答したりするようなことはない。また、カメラを向けた目の前の男に何かが起きること、出来事や事件を期待する様子もない。むしろ、「いま、ここで」で生成しつつある目の前の男の日常を凝視することに徹している。映画を撮るとは、あくまでも見ることであり、決して見せることではない、ということをこの作品は教えてくれる。

寒さが漂うある冬の薄暗い早朝だろうか。この作品の中でたった一度だけ使われる手持ちのカメラが、川の浅瀬を渡り、中州の草むらの中をゆっくりと進んで行く。草むらを越え、目の前が開けたとき、その手持ちのカメラは、中州に乗り上げた一隻の船とその中に座る一匹の見慣れた野良犬の姿を目撃することになるであろう。

この映画をここまで観てきたものは、これまでの長回しの持続に切断を加えたこの驚異的な手持ちのショットをきっかけとして、この映画の舞台が、川に浮かぶ船上から、川の中州に乗り上げた船の中へ移行することを、その内容が、船に住むある初老の男の物語から、この男が飼っている野良犬の物語へと劇的に展開することを、そしてこの映画が終わりに近づいていることを予感するであろう。

川での船上生活から離れ、中州に乗り上げた船の中で、疲れ果て深い眠りに入った初老の男の傍らで、その男に拾われソレイユと名づけられた一匹の野良犬がその子どもたちを産み落とすとき、この映画の最後のシーンを見届けようとしているものは、その再生と希望の物語に心を動かされずにはいられないであろう。

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